1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。 87年に184安打、打率.366で首位打者
1980年代はシーズン130試合制。打率とて影響がないわけではないが、安打や本塁打など積み上げていくタイプの記録には、試合数が大きく影響する。2015年に西武の
秋山翔吾が216安打を放って更新したプロ野球のシーズン安打記録だが80年代、130試合制で最多となる184安打を放ったのが近鉄の新井宏昌だ。その87年は打率.366で首位打者にも輝いている。プロ13年目、35歳で獲得した初の打撃タイトルでもあった。
PL学園高で70年に主将として夏の甲子園に出場して準優勝。5試合すべてで安打を放ち、計12安打は当時の大会タイ記録だった。法大を経てドラフト2位で75年に南海へ入団。2年目から外野のレギュラーを確保した。卓越したバットコントロールで左右に打ち分ける巧打者ぶりは当時から際立っていて、79年には打率.358も、6厘の差で阪急の
加藤英司に及ばずリーグ2位、82年にも打率.315をマークして、
ロッテで史上最年少の三冠王に輝いた
落合博満に次ぐリーグ2位。この2シーズンは外野のベストナインに選ばれている。
翌83年には初の全試合出場。肩は強いとは言えなかったが、俊足を生かして守備範囲は広く、2ケタ盗塁8度を記録するなど、攻守走にわたって暗黒時代の南海を支え続けたが、
山口哲治との“御堂筋トレード”で86年に近鉄へ。移籍1年目から全試合出場で初の2ケタ12本塁打を放った。
利き目を意識して、盲点が投手を向かないようオープンスタンスに、そしてヘッドを背中に入れすぎないように構える。そして、バットを「内から、上から」出す意識で球の芯を叩き、低くて強い打球を放つことを心がけて、内角への投球は右方向、真ん中へは中堅方向、外角へは左方向へと打ちわけた。左投手に対しては、外角いっぱいと、逆に自分の体に向かってくる軌道の投球は捨てて、真ん中か、やや外角の球を左へ流す意識で。右投手に対してはシュートと外角へのストレートは捨てて、自分に向かってくる軌道の投球に狙いを絞り込んだ。
迎えた87年は128試合に出場。自己最多の13本塁打を放っているが、これは左打者らしく、すべて右方向へ。一方、それ以外の安打は中堅方向が61本、左方向が53本と、右方向の36本を大きく上回る。内野安打21本も新記録への大きな原動力となった。左打者ながら左投手を苦にせず、右投手に対しては打率.361だったが、左投手に対しては打率.384をマークしている。後半戦に入ると阪急の
ブーマーが猛追してきたものの、8月は打率.427、9月が打率.400と、まったく寄せ付けず、余裕の逃げ切り。2年連続ベストナイン、初のゴールデン・グラブにも選ばれている。
通算犠打は歴代6位
“10.19”もあった88年は133安打、打率.286にとどまったが、犠打は前年の22から25へ。翌89年は自己最多の31犠打をマークしながらも、134安打を放って、打率.302と3割に復帰させている。ヒットメーカーぶりに隠れているが、堅実な犠打も大きな武器。南海時代と合わせて2ケタ犠打は15度、通算300犠打は2018年終了時点で歴代6位だ。
打順は二番が多く、俊足のリードオフマンを犠打で送ることも、巧打でヒットエンドランを成功させることもできる二番打者の存在は、敵チームの脅威だった。その89年は初めて優勝を経験。巨人との日本シリーズにも全7試合に出場して、大舞台でも打率.333と安定感を発揮している。
90年代は大ベテランの域に入りながらもシュアな打撃は健在。通算2000安打に到達した92年は106試合に出場しながらも、オフに現役を引退した。94年に
オリックスの打撃コーチに就任。まだ130試合制だったが、その94年にプロ野球で初めて200安打を超え、最終的には新記録となる210安打を放ったのが、プロ3年目の
イチローだった。その後もイチローの安打量産をサポート。メジャーで世界記録を更新した安打製造機の礎を築いた功績も大きい。
写真=BBM