1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。 ワニが好物、刺身はクレージー?
パ・リーグでは南海がダイエー、阪急が
オリックスとなり、時代も昭和から平成となった1989年。名門2球団の終焉という衝撃も冷めやらぬ中、一方のセ・リーグで、ちょっとした戦慄が走った。メジャー通算256本塁打の実績を引っ提げ、ヤクルトへ入団したパリッシュが、入団会見で好物を訊かれ、
「ワニの肉」
と答えたためだ。近年はワニ肉を提供する店も少ないながら存在し、それほど珍しい食材ではなくなってはいるが、当時の日本では“ゲテモノ”。そもそも、ワニを食べようと発想することすら皆無に近かったから、ゲテモノ食いの奇人、というインパクトは強烈で、“ワニ食いおじさん”“ワニ食い男”、さらには“ワニ男”というニックネームとともに、その名は一気に列島を駆け抜けていった(?)。
人間、第一印象は大切だ。特に、プロ野球の助っ人に関しては、異文化の出合いでもあり、そのファースト・コンタクトで妙な目立ち方をしてしまうと、ある種のレッテルのように、それが言われ続けることになる。80年代に活躍した
ロッテのリーは、76年の秋に来日した際にラジコン飛行機を持ってきて関係者を不安にさせた。リーは1年目から結果を残して不安を払拭したが、ヤクルトの“先輩”に当たる
ペピトーンは73年シーズン途中に愛犬と金髪美人を伴って来日。このとき、コントの登場人物かのようなカツラをかぶっていて、やはり関係者を不安にさせ、すぐに不安を的中させた。
一方の“ワニ男”。脂肪分の少ないワニの肉は出身地のフロリダではポピュラーな食べ物だというが、なんでも食べるというわけではなく、刺身を勧められると、
「こんなの食べるヤツはクレージーだ!」
と怒り出したという。さらには、“相棒”の人形型サンドバッグ、“ラリー人形”の存在も、奇人という印象に拍車をかけた。ふだんは紳士だが、カッとなりやすく、メジャーでは壁やベンチを殴ったり蹴ったりで自分がケガをしてしまうことが多かったため、ケガ防止のために購入したもの。その腹部には、”KICK ME or HIT ME Whatever you want! Good luck Next time.”(蹴っても殴ってもいいよ、次の幸運を祈る)と、殴る側には都合のいいことが書かれていたから
シュールだ。
不安要素はキャラクターだけではなかった。74年にチームメートだった
クロマティ(のち巨人)とともにエクスポズでメジャー昇格、翌75年から三塁のレギュラーとなり、79年には30本塁打を放ったが、81年に本塁クロスプレーで左ヒザじん帯断裂。特注のサポーターで固定しながらのプレーを余儀なくされており、走塁にも不安があった。だが、オープン戦から打率.307、7本塁打と爆発。不安は一気に期待へと変わった。
三振が多く、チャンスに……
スタンスの狭い、ゆったりした構えから力強く踏み込んでフルスイング。外角の変化球は苦手だったが、外角球は長いリーチを生かして拾い上げ、当たれば信じられないくらい飛んでいった。4月から5月にかけての5試合連続本塁打で完全に目覚め、5月は11本塁打で月間MVP。序盤は巨人の
原辰徳、中盤は阪神のフィルダー、終盤は
中日の
落合博満らと争ったが、最終的には42本塁打で、来日1年目にして本塁打王に輝いた。
その一方で、三振も多かった。
「三振を恐れてはいけない。思い切って振っていれば投手の配球ミスで甘い球が来ることがある。四番打者なら、それを決めればいい」
と、141三振の
池山隆寛、125三振の
広沢克己に挟まるリーグ2位の129三振を喫している。さらにはチャンスに弱く、満塁の場面では10打数で無安打、クリーンアップの池山、広沢の3人では26打数4安打9三振、打率.154。オフには年俸1億円で再契約となる方向だったが、新たに就任した
野村克也監督の構想から外れて、解雇された。
翌90年はフィルダーの後釜として阪神でプレーしたが、左ヒザの古傷が悪化して、シーズン中に治療のため帰国。そのまま現役を引退した。
写真=BBM