日本のプロ野球に外国人登録枠が採用されたのは1952年から。だが、それ以前の黎明期から日系二世などの外国人はプレーしていた。時代とともに外国人枠、外国人選手の出身国、日本球界を取り巻く環境も変わってきた。それぞれの時代の中で外国人選手はどのような役割を果たしてきたのか。助っ人のトレンドを年代別に考察してみよう。 群雄割拠の時代となったセで

巨人史上初のメジャー出身選手となったジョンソン
前回の1960年代の出来事がほとんどパ・リーグだったのは、その時期のセ・リーグが「外国人選手のいない巨人軍の一人勝ち」という状況だったからだ。巨人は「プロ野球の父」といわれる正力松太郎が遺した「大リーグに追いつけ、追い越せ」の言葉を実践するために、外国人選手に頼らないチーム作りで日本一になり、ワールド・シリーズ優勝チームとの「世界一決戦」に挑むのを目標にしていた。しかし、主力打者の
長嶋茂雄が74年限りで現役引退するとそうも言っていられなくなり、球団史上初のMLB出身選手としてジョンソンを入団させたのは周知のとおりだ。
巨人のV9が終了したことで、セ・リーグは群雄割拠の時代に突入。近年は強豪チームのイメージが強い
広島と
ヤクルトが球団史上初優勝を飾ったのも、この時代だ。
ホプキンスとシェーンの力なくして75年の広島初優勝はあり得なかっただろうし、78年のヤクルト初優勝も、マニエルと
ヒルトンの存在なくしては不可能だったはず。外国人に頼らなかった巨人のV9時代が終わり、「優勝するチームには良い外国人選手がいる」という傾向がより顕著になってきたと言えよう。さらに、選手ではないが75年に就任したルーツ監督(広島)の存在も、シーズン序盤で退任したとはいえ、初優勝の礎を築いた功績は否定できない。
この時代のセ・リーグは
阪神には
ラインバックや
ブリーデンが、
中日はデービスとマーチンがいた。大洋にはボイヤーとシピン。特にボイヤーはメジャーでもゴールド・グラブ賞経験がある名三塁手で、そんなボイヤーと二塁手・シピンの間を守った若き日の
山下大輔遊撃手は、大いに勉強になったという。シピンは大洋時代に長髪とヒゲがトレードマークだったが、巨人に移籍するとさっぱりした姿に変身して世間を驚かせた。
DHが導入されたパで

79年6月、死球でアゴを複雑骨折するも、アメフト用のプロテクターをつけて不屈のカムバック。37本塁打を放ち、近鉄に初優勝をもたらしたマニエル
70年代のパ・リーグは阪急の黄金時代で野手の主力は
福本豊、
加藤秀司などだったが、外野手のウィリアムス、二塁手の
マルカーノなどはやはり欠かせない戦力であった。
この時代のパ・リーグで言えば、75年に指名打者制度が導入されたのは外国人選手の歴史を語る上でも大きなトピックだ。
79年に初優勝した近鉄から球団史上初のMVPになったのは、指名打者のマニエルだった。ヤクルトの初優勝に右翼手として貢献したマニエルは、77、78年と2年連続で40本前後の本塁打を残しながらも、守備、走塁に難があると近鉄に放出されていたのだ。指名打者に専念した79年には死球による長期離脱がありながら37本塁打で本塁打王とMVP。連覇した翌80年は48本塁打、129打点で2冠と、手がつけられないほど打ちまくった。
のちにローズや
ラミレスに抜かれるまで安打、本塁打、打点などさまざまな打撃記録の「外国人最多」のトップにいた
レロン・リー(
ロッテ)が来日したのも70年代。来日初年度の77年に本塁打、打点の2冠に輝くと、翌年には実弟のレオンも入団し、「リー兄弟」として活躍した。
79年には南海に入団したオーテンジオが「
王天上」の登録名で話題を呼んだが、23本塁打と
王貞治のようなインパクトは残せなかった。
写真=BBM