昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 近鉄・三原監督の優勝宣言
今回は『1968年3月11日号』。定価は60円。
1968年春季キャンプで、近鉄・
三原脩新監督があらためて優勝宣言をした(就任時にもしていた)。
根拠は、
「ことしのパ・リーグは混戦でしょうね。ずばり言って優勝ラインは5割台。これならうちもチャンスがある。昨年優勝の阪急は75勝、近鉄が59勝ですが、そのうち1点差で負けた試合が17試合ある。1点差で負けた試合を今年はうちがいただく。野球は相手のミスを利用するゲームです。その相手を計算すれば昨年より16勝増えることは造作もありません。75勝はうちも可能です」
選手には、おだて作戦のようだ。若き左腕エース・
鈴木啓示について、
「十数年ぶりに素晴らしいピッチャーを見ました」
三塁に挑戦中の
飯田幸夫には、
「飯田という選手は、私が西鉄で豊田(泰光)を見たときを思い出しました。豊田そっくりの型の選手ですね」
豊田は、1年目からレギュラーに抜擢し、大活躍した選手だ。いずれも直接ではなく、報道陣に言って本人に聞かせるノムさん戦法だった。
名将の言葉に、2人とも大張り切りの様子である。
大和球士の連載「プロ野球名人伝」で、俺がルールブックだ、の審判、二出川延明が登場した。
この人は1935年の巨人の第1回アメリカ遠征に主将として参加したが、帰国後、二出川の明大の先輩だった
岡田源三郎が監督となった金鯱に誘われ、
江口行男とともにトレードとなった。
これが日本球界のトレード第1号と言われる。
その後、公式戦には出場せず、審判員になったのは知っていたが、ここに書かれていた経過は初耳だった。
事件は名古屋の夜、後輩を引き連れて飲んでいたキャバレーで起こった。
若いときの二出川は、いわゆる役者顔で女性にもてたという。この店でも、ホステスたちがキャーキャーと騒ぎ立てたが、それにほかの客がやきもち。ヤクザ風の男たちに絡まれた。
ただ、脅されて大人しくなるタイプではない。腕にも自信のあり、いつの間にか殴り合いのケンカに。二出川が優勢に戦っていたらしいが、いつの間にか、両手に手錠がガチャリとかかった。騒ぎを聞いてやってきた警官を知らずに殴ってしまったのだ。
事件は球団の母体・名古屋新聞が手を回し、もみ消してくれたらしいが、選手としての契約は、となって、依願退職となったという。
まあ、昔話の武勇伝はたいてい盛ってあるが。
その後、7月から審判となった二出川。有名な「私がルールブックだ」は、素晴らしい逸話だと思うが、アウトと宣告したプレーが翌日の新聞に写真入りで載り、それがどう見てもセーフだとたたかれたときの言葉がすごい。
「写真が間違っています」
では、またあした。
<次回に続く>
写真=BBM