プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。 長嶋の引退と監督就任で動いた歴史
プロ野球の歴史を彩る助っ人たち。もちろん例外もあり、21世紀に入って急増したことで近年は見えづらくなっているが、20世紀の各チームには、それなりの傾向というものがあり、チームごとに、どこか似た雰囲気の助っ人たちが並んでいる。タイプが両極端に分かれるのが巨人。「紳士たれ」と義務づけられた巨人にあって、そのあたりにいる紳士よりも紳士的だった助っ人がいた一方で、実力がありながらも、それ以上に蛮行で印象を残す助っ人も並ぶ。
「紳士たれ」と同様、“巨人の父”正力松太郎の「アメリカ野球に追いつき、そして追い越せ」という言葉は、助っ人の系譜にも影響を与えた。戦前は表現が難しいが、ユーラシア大陸に生まれた
スタルヒン、台湾から来た
呉波(昌征)、フィリピン遠征で対戦したことで入団してチーム初の満塁弾を放ったリベラら、いずれもアメリカ国籍ではない。戦後も、出身はアメリカだが、その走塁でプロ野球に革命を起こした
与那嶺要や、捕手の
広田順、強打と笑顔で沸かせた
宮本敏雄ら日系人の選手ばかりで、V9期間中は助っ人が皆無だった。
そんな傾向が変わったのが1975年。
長嶋茂雄が現役を引退し、監督に就任してからだった。自身の穴を埋めるべく獲得したのが、メジャーの名二塁手だったジョンソン。だが、慣れない三塁で起用したことで低迷し、ファンには“ジョン損”などと揶揄され、長嶋監督からも独特の英語(?)で非難されたこともあったが、翌76年に二塁を任されたことで真価を発揮、リーグ優勝に貢献した。
同じく76年の助っ人V戦士ながら、対照的に短気で、名前をもじって“クレイジー”と言われたのが投手のライトだ。78年に大洋から獲得したシピンも、“ライオン丸”と呼ばれたトレードマークの長髪とヒゲをバッサリ、見た目は“紳士”となったものの、正義の味方で特撮ヒーローのライオン丸どころかライオンのようになってしまい、狂暴な助っ人だけとなる。
そんな潮流を変えるべく(?)80年に登場したのがホワイト。メジャーの名門
ヤンキースでも中軸を担った歴戦のメジャー・リーガーは紳士としても完成されており、死球を受けても顔色ひとつ変えず一塁へ歩く姿は印象に残る。シピンの後釜として81年に入団し、芸術的とも言われた豪快な三振で名を残すトマソンとともに、82年いっぱいで退団。その後継者となり、帽子からはみ出たアフロヘアや両打席からの強打でインパクトを残した
スミスも、若い巨人に好影響を与えた助っ人だ。ホワイト同様、メジャーの実績を誇るスイッチヒッターでもあったが、翌84年に入団した
クロマティも、そんなスミスには頭が上がらなかったという。
憎めないクロマティ、笑えないガルベス

巨人・クロマティ
90年までプレーを続けたクロマティは、抜群の結果を残しながらも、陽気な、もとい、相手チームに礼を欠いたパフォーマンスや乱闘でも印象を残す。87年には緩慢な外野守備を突かれて
西武に日本一を許したこともあったが、89年には打率4割を維持してシーズン規定打席に到達、最終的には打率.378まで落としたものの、首位打者、MVPに輝くなど、その打棒は巨人の助っ人たちでも群を抜く。同時期には、
角三男、
鹿取義隆と
王貞治監督の継投策を支えた
サンチェを経て、糖尿病と戦いながらもマウンドに立ち続けた
ガリクソンら投手もいた。
乱闘や非礼なパフォーマンスも、どこかコミカルで、相手チームのファンにとっても憎めない印象もあり、巨人のファンには愛されたクロマティの一方で、90年代、投手の
ガルベスが残した蛮行は、巨人のファンでも笑えないものだった。来日1年目の96年には16勝で最多勝、打っても通算10本塁打、うちグランドスラム2発と結果を残したものの、98年には判定への不服から降板の際に審判をめがけて全力投球。この前代未聞の暴挙は、長嶋監督を丸刈りにさせただけでなく、引き際も決意させたという。
2000年にガルベスの不振でマウンドに上がったのは
阪神から移籍してきた
メイだったが、やはり結果よりもトラブルの印象が強い。
写真=BBM