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平成助っ人賛歌

助っ人史上最多メジャー133勝左腕、バニスターはなぜ日本に来たのか?/平成助っ人賛歌【プロ野球死亡遊戯】

 

MLBを代表する左腕のひとり


ヤクルト・バニスター


 1990年2月11日、ファミコンソフト『ドラゴンクエストIV 導かれし者たち』が発売された。

 その約2カ月後の4月27日には『ファイナルファンタジーIII』が世に出る。7月の『キャプテン翼II スーパーストライカー』、8月の『忍者らホイ!』といった良作を挟みつつ、11月21日には任天堂の新ハード『スーパーファミコン』(2万5000円)が発売。前年4月に登場のゲームボーイ人気で火がついた携帯ゲーム機も90年10月に『ゲームギア』(1万9800円)、12月に『PCエンジンGT』(なんと4万4800円!)と今から30年前の平成2年は異常なほどの新ハードラッシュだった。

 当時、これらの新作ゲーム機をクラスメートの誰かしら持っていてみんなで貸し借りしながら遊んでいたわけだが、そんな高価なものを小学生の小遣いでどうやって買っていたのだろうか? 同世代の新年会で話題になったが、誰かがビール片手に「まあ、それがバブルってことじゃないの?」と言った。ニッポンが異常な好景気だった90年前後、普通の中流家庭の少年でも、今思えばイレギュラーな小遣いやお年玉が多かった気がする。じゃなければ、これほどゲーム業界も新作を連発しないだろう。

 子どもの世界でも好景気を実感するくらいだから、大人社会の縮図・プロ野球でもビッグネームの大物外国人選手が続々と来日していた。当時は観客動員に悩んでいたパ・リーグ各球団も88年のビル・マドロックロッテ)、トニー・バナザード(南海)、89年のウィリー・アップショー(ダイエー)と立て続けに年俸100万ドルクラスの大物メジャー・リーガーを獲得。セ・リーグでは、87年にボブ・ホーナー入団で世間を賑わせたヤクルトが、その後も東京ドーム第1号を放ったダグ・デシンセイ(メジャー通算237本塁打)、89年セ本塁打王ラリー・パリッシュ(メジャー通算256本塁打)、ロン・デービス(メジャー通算130セーブ)とビッグネーム路線を邁進。そして、1990年(平成2年)の新助っ人がドウェイン・マーフィー(メジャー通算1069安打、100盗塁)と、今回の主役フロイド・バニスターである。

 MLB通算327試合(2325回2/3)を投げ、133勝142敗、防御率4.03、1677奪三振の大物大リーガーは34歳でのヤクルト入りだった。米4球団を渡り歩き、奪三振王に輝いた82年から88年まで7年連続2ケタ勝利。MLBを代表するサウスポーのひとりとしてホワイトソックス時代には2度、シーズン16勝を記録している。来日時のメジャー通算勝利数はビル・ガリクソン巨人)の101勝を抑え、なんと歴代1位の好成績。もちろん球団からの期待は大きく、推定1億4500万円の高年俸も話題に(90年日本人最高は中日落合博満で1億6500万円)。野村克也監督が就任したヤクルトの投手陣は荒木大輔高野光ら主力が故障離脱中で、バニスターはエースを期待されての加入だった。

左肩は完治していない!?


バニスターのピッチング


「腕をグッと振り、胸が遅れて出てくる理想的なフォーム。“七色の変化球”と打者の手元でホップする“ライジング・ファストボール”はそうそう打たれないだろう。打線とのかね合いもあるが15勝は堅い」と『週刊ベースボール』でも紹介される平成2年の目玉助っ人。しかし。だ。圧倒的な実績を持つ左腕にもひとつだけ不安点があった。前年6月に左肩を手術していたのである。所属していたロイヤルズを解雇され、野球を続けるために日本行きを決断。開幕直前の週ベ90年4月9日号にはバニスターの貴重な独占インタビューが収録されているが、ここでもその左肩の状態について自ら触れている。

「(左肩は)とてもいい状態にある。続けてきた投げ込みで、だいぶ肩ができてきた。スピードもかつてほどは出ないかもしれないが、徐々に元に戻りつつある」

「基本的にはファストボール、スライダー、シンカー、チェンジ・オブ・スピード。ただ“ファストボールが最大の武器”というのが私の持論だ。今、スピードは86、87マイル(138〜140キロ)くらいしか出ないだろうけどね」

「(15年前の日米大学野球の思い出を聞かれ)エガワ! 忘れられない。彼とはユニフォームを交換した仲だ。彼は今どうしてる?」

 さすが昭和の怪物、江川卓の才能はのちの大リーガーも恐れるほどだった……ってそこではなく、コメントを聞く限り、左肩はまだ完治していない雰囲気だ。それでも野村監督は開幕2戦目の巨人戦先発にさっそくバニスターを送り出す。4月はローテの中心で3勝をマークする前評判どおりのスタート。練習態度は真面目で、同僚左腕の矢野和哉加藤博人からのアドバイスを参考にする一面もあったという。だが、まだ投手分業制が確立されていない時代において、100球前後が限度で5回あたりを目処に降板。球速は130キロ台前半で徐々に勝ち星から見放され、ノムさんも「バニーは日本での1年間を肩のリハビリと考えているな。来年は大リーグに戻るんじゃないか。プレーボールの時からリリーフを用意しておかなきゃならんピッチャーなんて……」とボヤき出す。

懸念されたリハビリを兼ねた来日


 すると、5月下旬には疲労性の左肩痛で登録抹消され、「開幕からずっと肩が痛かった。我慢して投げていたが、これ以上は……」なんつってメジャー133勝左腕はギブアップする。さらに四番を期待された野手の新助っ人マーフィーも、5月24日の中日戦でスライディングをした際に右ヒザを軽く打っただけで故障離脱。こちらも大リーグ時代に手術をした古傷だった。結局、バニスターは6月12日に再登録されるも、6月14日の巨人戦で桑田真澄と投げ合ったのが日本最終登板となる。9試合で3勝2敗、防御率4.04。ヤクルト側は途中で契約解除する場合は、それ以降の給料は払わなくてもいいオプション契約を結んでいたという。退団決定後に『サンデー毎日』に掲載されたバニスターのコメントは「来春には100パーセントの力で投げられるようになるだろう。これからは大リーグ復帰のために全力を尽くす」だった。

 まさに当初から懸念されていたリハビリを兼ねた来日であり、同時にジャパンマネーを狙う元大物大リーガーたちが続出した、空前の好景気の1990年を象徴する助っ人と言ってもいいだろう。帰国後のバニスターは翌年、リリーバーとしてメジャー復帰を果たした。

 ちなみにその息子の名はブライアン。そう、2011年に巨人が獲得したブライアン・バニスターである。年俸1億2000万円のメジャー通算30勝右腕。なんか昔聞いたことあるこの感じ。ついに息子がNPBで親父のリベンジと思いきや、開幕前の東日本大震災直後に無断帰国。再来日の要請にも答えることはなかった。最終的に他リーグへ移籍できない制限選手となり、バニスタージュニアは日本で1試合も投げることなく現役を引退している。

文=プロ野球死亡遊戯(中溝康隆) 写真=BBM
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