歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。 正しいキャッチボールの指導から
優勝と無縁どころか、Bクラス、あるいは最下位の常連というチームが閉塞感に覆われてしまうのは、自然の摂理といえるかもしれない。そんなチームが強くなっていき、優勝という頂点にまで駆け上がるのは簡単なことではないだろう。連続最下位から日本一に輝いた大洋については紹介したが、1年で急に強くなったわけではなく、戦力を整えても結果の出ない閉塞感の中、希望を失わず、さらなる準備を続けた結果、
三原脩監督という最後のピースと、接戦で不運に見舞われない小さな幸運が重なっての快挙だった。
そんな大洋と日本シリーズで激突した大毎を率いていた西本幸雄監督も就任1年目にして優勝に導いたが、
山内和弘ら強打者が並ぶ“ミサイル打線”を擁したチームでもあり、チーム2度目の優勝は監督の功績とは思われなかった。4連敗に終わった日本シリーズではオーナーに電話で采配を批判され、口論に。「バカヤロー!」と言われて、「だったら辞めます」と辞任している。1年の評論家生活を経て、阪急のコーチに就任。監督に昇格したのは1963年のことだった。
「阪急」とプロ野球が結びつかない若い読者も多いだろう。21世紀の球界再編騒動があったため歴史は複雑だが、現在の
オリックスにとって原点ともいえるのが阪急だ。オリックスも優勝から遠ざかっているが、ブルーウェーブ時代を合わせても、せいぜい四半世紀。阪急はプロ野球の結成に参加した36年から、さらに長い時間を優勝とは無縁で過ごしていた。チームカラーは“灰色”。ユニフォームの色が由来ではない。選手たちも閉塞感に覆われていた。少なくとも、勝利に対しては気力を失っていたのだろう。西本は厳しく指導したが、反抗もせず、まともな練習もせず、試合が終われば夜の街へ繰り出していく。それでも西本は、あきらめなかった。プロの選手に対して、正しいキャッチボールから教え始める。選手たちもプロという自負はあるだろうし、プライドが傷ついたことだろう。ただ、「できないことがあれば、できるようになるまで指導するだけ」、これが西本の信念でもあった。
だが、なかなか結果につながらない。これが選手の不満を呼んだ。66年、阪急は5位。西本は、すべての選手を集めて“投票用紙”を配る。前代未聞の、いわゆる“監督信任投票”だ。無記名で行われた投票は、全43票のうち、信任は32票あったが、不信任が7票。これが西本に辞任を決意させる。ただ、西本の愚直なまでの情熱に惚れ込んでいた小林米三オーナーが必死の慰留。これに西本が折れた。ふたたび西本の熱血指導が始まる。いや、加速していった。脱落者も出たが、若手たちが食らいついていく。
32年目、初の歓喜
1967年、初のリーグ優勝に輝いた阪急
怒鳴るだけではない。時には手も足も出た。もちろん現在ならアウトだろう。体罰が容認、あるいは称賛すらされていた時代だ。若武者たちも負けていない。暴力への恐怖から西本に従ったわけではなかった。西本の情熱が痛いほど伝わったからだ。今の常識で見れば、奇妙な光景だろう。狂っているようにも見えるかもしれない。だが、それが戦争という地獄を知る男と、戦後の貧困を知る男たちの生きた時代の真実でもあった。
迎えた翌67年。阪急は序盤から順調に勝ち進む。4月を首位で通過すると、一時は3位まで落ちたが、すぐに復帰。8月に7連勝で2位の西鉄に10ゲーム差をつけて独走態勢に入った。打線は2年目の
長池徳二が4打数連続を含む27本塁打と急成長、四番打者に定着する。
スペンサー、ウィンディの両外国人も起爆剤となった。若手の勢いにベテランたちも活気づく。投手陣はサブマリンの
足立光宏が軸となり、“灰色”の時代を支え続けた左腕の
梶本隆夫と右腕の
米田哲也ら“ヨネカジ”も堅調。彼らと“四天王”を形成した右腕の
石井茂雄もローテーションを守る。
10月1日の東映戦ダブルヘッダー第2試合(西京極)は日没
コールドで惜敗したが、その試合中に西鉄の敗戦で優勝が決まった。ただ、胴上げに慣れていない阪急ナイン。西本監督は空中で半回転、うつぶせのような恰好で降りてきた。
文=犬企画マンホール 写真=BBM