ヤクルトと縁がある左腕の系譜?

昨年、打率.323で初の首位打者に輝いた吉田正
巨人で
金田正一の永久欠番となっている「34」については紹介している。プロ野球記録として燦然と輝く通算400勝を残した左腕の金田から、「34」には左腕のイメージが定着した。
中日で50歳まで現役を続けた左腕の
山本昌も「34」。
阪神では
仲田幸司、
広島には
川口和久などのタイトルホルダーも「34」の左腕だ。タイトルといっても、もちろん投手タイトル。打撃タイトルを獲得した「34」の選手はプロ野球が始まって以来、1もいなかった。
ただ、「34」を経験した選手が打者のタイトルを獲得したことはあって、サンケイ(現在の
ヤクルト)で1966年から2年だけ「34」を着けて金田の後継者となった
東条文博は「38」に変更して盗塁王に。首位打者なら広島の
嶋重宣がいるが、もともと投手として入団した「34」の左腕で、打者に転向、背番号も「55」に変更して獲得したものだ。
それが2020年、「34」の首位打者が登場した。
オリックスの
吉田正尚だ。左打者だが、左投手ではない。ドラフト1位で16年に入団して以来、一貫して「34」を背負っている外野手。2年目までは故障もあったが、3年目の18年に初の全試合出場で打率.321をマークすると、20年には打率.350で自己最高を大きく更新して首位打者に輝いた。これだけでも快挙には違いないが、プロ野球の「34」においても大きなエポックだ。同時に、吉田の入団までオリックス、その前身である阪急の系譜に左の好打者が並んでいたわけでもない。他のチームと同様に左腕が目立つ、ごく一般的な系譜だった。
初めてチームに「34」が登場したのは1956年のこと。右腕の
永田和弘が背負ったが、1試合に登板したのみで、2年で引退した。そこから久保正彦、
荒砂任司と2年ずつ。59年に入団した4代目の
大塚祐司は左腕だったが、2年目から外野手となり、4年で引退している。当時、すぐ前の「33」にエース左腕の
梶本隆夫がいて、「34」でも左腕が活躍すればドラマチックだったのだが、そう都合よくはいかないものだ。63年に5代目となった左腕の
渡辺博文も2年で移籍して、プロ初勝利は新天地のサンケイで挙げたものだった。65年からは奥川勝彦、
浜崎正人、欠番、
金本秀夫、
長田裕之と1年ずつ。70年から5年間は左腕の
国岡恵治が着けるも通算10試合の登板で引退、75年には右腕の
鈴木弘規が継承したが、やはり5年で阪神へ移籍した。

背番号「34」でリリーフ左腕として活躍した森
静かに輝き始めたのは80年に新人で左腕の
森浩二が着けてから。82年に一軍デビュー、主に左のワンポイントとしてチームを支え、88年には自己最多の42試合で2勝、自身2度目の1球敗戦もあった89年にも40試合に登板している。92年オフにヤクルトへ移籍するまで一貫して「34」で、阪急の最後、オリックスの最初も、もちろん森だ。ただ、前身の国鉄に金田がいたヤクルトに縁がある左腕の系譜、という物語の域を出ていないのも事実だろう。森の移籍から、物語は複雑になっていく。
右と左のセットアッパーを経て

02年から10年までオリックスで背番号「34」を着けた本柳
93年には中日から移籍してきて3年目となる右腕の
川畑泰博が3年間、96年からは右腕の川崎泰央が5年間。2001年だけ左腕の
岸川登俊が着けたが、翌02年には新人の
本柳和也が継承して、ふたたび右腕の背番号となる。ただ、本柳は04年に先発の一角を担って6勝、08年には主にセットアッパーとして58試合に登板するなど活躍。10年オフに引退するまで一貫して「34」を背負い続けた。
11年はメジャーでもプレーした右腕の
小林雅英が「34」でラストイヤーを迎える。12年には「49」だった7年目の
中山慎也が継承して左腕の背番号に戻り、中山は「34」1年目に自己最多の53試合に登板して14ホールドをマークした。中山の退団で後継者となったのが吉田だ。
遺伝子の突然変異は生物の進化につながる、などという話を聞いたことがある気がする。こうした難しいことは分からないが、背番号という小さな世界の物語では、吉田の登場を突然変異と表現してもオーバーではないだろう。吉田の活躍でオリックスがバファローズとしての初優勝を飾れば、オリックスも、「34」の物語も、“進化”が始まるはずだ。
【オリックス】主な背番号34の選手
国岡恵治(1970〜74)
森浩二(1980〜92)
本柳和也(2002〜10)
中山慎也(2012〜15)
吉田正尚(2016〜)
文=犬企画マンホール 写真=BBM