有名な応援歌に合わせて
1986年(昭和61年)秋、日本テレ
ビドラマ『あぶない刑事』が始まった。
劇中のタカ(舘ひろし)とユウジ(柴田恭兵)のスーツは、「メンズ ティ
ノラス」が提供。大学生たちは丸井のカードで、肩パッドの入ったビッグシルエットのスーツに憧れ、ローンを組んで買い求めた。この年の5月には、男性用ファッション誌『メンズノンノ』や『FINE BOYS』も創刊。プロ野球選手の服装もDCブランドを好んで着る、“新人類”と呼ばれる若手選手たちの出現で大きく変わろうとしていた。
そんな時代にひと目で安物と分かるペラペラのスーツで来日したのが、
カルロス・ポンセである。86年に大洋ホエールズへ入団した、この男の年俸はたったの10万ドル(1600万円)だ(契約金を含めると3000万円という報道もあり)。前年はブリュワーズでメジャーデビューを果たすも、打率.161、1本塁打という成績に終わりメジャー登録枠からは外れていた。大洋は85年に3割30本100打点を記録した
レオン・リーを電撃解雇。日本での実績は申し分のないレオンだったが、脚力が衰えゲッツーも多かった。それを“スーパーカー・トリオ”が看板の機動力野球を掲げる
近藤貞雄監督が嫌がり、まだ20代と若いポンセと
ダグ・ローマンに白羽の矢が立ったというわけだ。
アメリカでのテストを経て入団が決まった格安助っ人は、「五番・三塁」で起用された開幕戦で、挨拶がわりの2本塁打をかっ飛ばす5打点デビュー。以降、プエルトリコ生まれの27歳は中心打者としてチームを牽引する。懸命に打って、守って、走る。野球選手も好景気に浮かれこぞって財テクに走る時代に、懐かしさすら感じさせるハングリー精神の持ち主。決して派手さはないが、米3A時代は52本の二塁打を放った典型的な中距離打者に目をつけた、スカウティングの勝利でもあった。牛込惟浩渉外担当は「僕はいろいろな外国人選手を見てきたが、これほど安いサラリーで、これほど一生懸命プレーする選手を初めて見た」と背番号7のがむしゃらなプレースタイルを称賛した。
「バモス・ポンセ〜」で有名な応援歌に合わせて、1年目から打率.322、27本塁打、105打点の活躍。チャンスに強く、三冠王に輝いたバース(
阪神)とは打点部門でわずか4点差だった。リーグ4位の大洋は、12球団トップの180盗塁と走りまくり、四番バッターのポンセも18盗塁(12盗塁死)で
高木豊、
加藤博一、
屋鋪要らと“スーパーカー・クインテット”の一角を担い奮闘する。当時はファミコンソフト『スーパーマリオブラザーズ』が大ヒット中で、ポンセも“マリオ”と少年ファンから愛され、瞬く間に球団屈指の人気選手に。同じくチョビひげをたくわえた同僚助っ人ローマンとともに、“スーパーマリオブラザーズ”というイージーかつご機嫌な愛称で呼ばれた。
大黒柱の背番号7

89年の開幕前、大相撲観戦に訪れたパチョレック[左]、ポンセ[中]が小錦[右]と会話を交わす
古葉竹識新監督が就任し、外野での起用が中心になった87年には全試合に出場して、打率.323、35本塁打、98打点。前年より上がったとは言え年俸3500万円の男が、高給取りの
落合博満や
ボブ・ホーナーを抑え、打点王を獲得してみせた。なお、159安打はリーグ最多だ。同僚のレスカーノが「140キロの球が怖くなった」とズンドココメントを残し突然退団したのを横目に、文句なしの働きでベストナイン選出。パワーと巧さを併せ持ち、勝負強さも安定度もある。加藤博一との陽気な連続ハイタッチ・パフォーマンスは「珍プレー好プレー」の常連だった。
オフには故郷プエルトトルコに念願のプール付きの家を購入。自分は経済大国ニッポンで長くプレーしてお金を稼ぐ。横浜で同居する幼なじみのピーチ姫……じゃなくてロザナ夫人に尻を叩かれながら、“マリオ”はひたすら走り続けた。好物はヘルシーな冷や奴。温泉が大好きで遠征先で混浴に遭遇すると、「ワイフに殺されちまうよ。絶対だれにも言うなよ」なんつってビビりながらも、ちゃっかりひとっ風呂浴びるお茶目な一面も。ある日の夕食のメニューはカツ丼、冷や奴、ミソ・スープとまるで日本人のような食生活を送り、ベスト体重の80キロをキープ。
寺岡孝ヘッドコーチは「ポンセは打席ですぐカッとするんだけど、それがいいんです。ときにボール球にも手を出すけど、あのカ〜ッと燃え上がるものがあるから」なんてハマの燃える男を頼りにした。
この2年連続の大活躍には、さすがに本人も気が緩んだのかオフにケーキ類を食べ過ぎて体重が増え、88年シーズン序盤は体のキレを失い不振にあえぐが、5月の大型連休あたりから復調。同僚の新助っ人パチョレックには、ロッカー裏の大鏡の前で日本スタイルの打撃フォームをアドバイスした。オールスター出場も果たし、落合や
原辰徳たちと激しく打撃タイトルを争うスラッガーは、88年もフル出場で33本塁打、102打点を叩き出し、2年連続打点王と初のホームランキングに輝く。80年代後半のセ・リーグは
巨人、
広島、
中日がAクラスの常連。だが、88年の大洋は3位広島に5.5差まで詰め寄った。その中心にいたのは大黒柱の背番号7だった。
ちなみに本塁打王争いのライバル原は、横浜スタジアムでポンセにホームランを打たれた自軍の
ビル・ガリクソンに対して、「ポンセ、フレンド?」とジョークなのか厭味なのかよく分からない言葉をかけ、頭にきたガリーはわざと「イエス」と答えたという若大将エピソードを
クロマティが自著『さらばサムライ野球』(講談社)の中で暴露している。
順風満帆な日本生活が……

4年目までは打撃で抜群の成績を残した
すべてが順風満帆な日本生活。しかし、牛込氏の自著『サムライ野球と助っ人たち―横浜球団スカウトの奮闘記』(三省堂)によると、この二冠獲得直後のオフからいきなり契約交渉に代理人を立ててきたという。年俸は6000万円まで上がるも、結果的に人のいいポンセは代理人に食いものにされてしまう。球団からは扱いにくい選手というレッテルを貼られ、さらに4年目の89年には前年の本塁打王獲得で、広角に打てる自分の持ち味を見失い、強引に引っ張ろうとする打席も目立った。追い打ちをかけるように遠視の影響もあり、打撃不振に苦しむ。なんとか矯正しようとメガネをかけ、気分転換にヒゲも剃り落とした。ストレスの溜まる日々が続き、5月21日の阪神戦では、1試合3死球に怒り乱闘騒ぎを起こしてしまい、異例のおわび会見を開く。
「こんなことが原因で大好きな日本を去ることになったら、自分自身恥ずかしいし、悔やんでも悔やみきれない」
古葉監督も「(フィルダーや
パリッシュの)他のチームの外人たちがガンガン打ってるからね。テレビや新聞を見て、ポンセ自身にも焦りがあるんだろう」と復調を待ったが、この年は打率.264、24本塁打に終わる。それでも、フル出場してリーグ最多の二塁打33、三塁打7と最下位に沈んだチームで意地を見せた。しかし、首脳陣の信頼を失った背番号7は、翌90年にパチョレックと新助っ人マイヤーの陰に隠れた“第三の外国人”扱いをされてしまう。酷な話だ。チームのために4年間ほぼすべての試合に出続けながら、あっという間に居場所を奪われてしまう当時の外国人選手には厳しすぎる現実があった。
90年シーズン、
須藤豊新監督のもと大洋は7年ぶりのAクラス入りを果たしたが、そこにポンセの姿はなかった。結局、5年目はわずか15試合の出場に終わり、打率.193、本塁打なし。まだ31歳、日本国内での移籍を希望するもトレード話がまとまらず、同年限りで退団した。当時、そのちびっ子人気にタレント転身を進める声もあったほどだ。
大洋在籍5年で本塁打王1回、打点王2回。通算打率.296、119本塁打、389打点。うすっぺらのスーツを身にまとい、でっかい夢を抱いて来日した若者は、日本を愛し、そして日本の野球をリスペクトした。最後�
蓮惱鬼�ベースボール』87年10月19日号掲載、28歳のポンセ本人のコメントで終わりにしよう。
「日本野球をなめる? とんでもない。ボクはアメリカにいるときは、いつも、ハンバーガーやフライドチキンなどの貧しいファースト・フード。日本に来れたおかげで、ステーキも食べられる。このよさは、ボクにとって大事にしたい。昔は大リーグでメジャーになる夢を見ていたけど、今は日本のメジャーになりたいと思って、精進しているよ」
文=プロ野球死亡遊戯(中溝康隆) 写真=BBM