定岡正二氏、篠塚和典氏、川口和久氏、槙原寛己氏の書籍『昭和ドロップ!』がベースボール・マガジン社から発売されました。昭和に生まれ育ち、昭和、平成に輝いた4人が、巨人、長嶋茂雄、青春の多摩川ライフなど、あのころのプロ野球を愛あり笑いありでたっぷり語り合う1冊です! これは不定期で、その内容の一部を掲載していく連載です。 「僕はちょっと英語しゃべれるんで……」(定岡)

『昭和ドロップ!』表紙
定岡正二さん、篠塚和典さん、槙原寛己さんで巨人の助っ人たちについて語ってもらったものです。
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槙原 サダさんが、最初にジャイアンツに入ったときの外国人は誰でしたか。
定岡 トマソン(
ゲーリー・トマソン)かな。
篠塚 トマソンじゃない。ジョンソン(
デービー・ジョンソン)(1975-1976)でしょ。
定岡 分かってるって。つかみでちょっとボケただけだよ。僕はジョンソンと結構、仲よかったからね。当時は二軍だったけど、バッティングピッチャーで一軍に行っていたし、僕はちょっと英語しゃべれるんで……。
いや、うそ(笑)。フレンドリーだからです。そのあとメッツの監督になって世界一になったときはうれしかったな(1986年)。当時はロッカールームで下を向いている姿ばっかり見てましたからね。1年目はまったく打てなかったから悩んでいる姿しか思い出せないんですよ。
助っ人は一人だったし、ネットで情報を仕入れたり、家族や友達とLINEができる時代ではない。昔の外国人選手は大変だったでしょうね。途中からミスター(長嶋茂雄。当時監督)が、すごく「こうだぞ、こうだぞ」とバッティングを教えていたのも思い出します。
篠塚 ジョンソンは、メジャー・リーグでバリバリだった選手を獲ったというイメージがあったじゃないですか。でも、メジャーってこんなもんかと思いましたね(あっさり)。
定岡 おっ、さすがシノ(笑)。これはカットせず書いておいてくださいね。シノは成績を残してるから言っていいんです。でも、ジョンソンの右中間の打球はよく飛んだよね(右打ち)。
篠塚 流すのではなく、引っ張るんだけど、向こうに飛ぶ。遅れてバットが出てくる
二岡智宏(元巨人ほか)みたいな感じでしたね。