2年連続で打撃3部門の大台を突破

89年に来日し、ロッテで人気者となったディアズ
なにかと話題の多い助っ人だった。来日は1989年、入団したのはロッテ。時代が昭和から平成となり、パ・リーグで阪急が
オリックスとして、南海がダイエーとして、再スタートを切ったシーズンでもある。当時のロッテは、まだ本拠地が川崎にあり、ニックネームはオリオンズだった。その助っ人の登録名は、「ランボー」……になるところだったという。由来は当時、人気だった洋画の主人公を演じたシルベスター・スタローンに風貌が似ており、その洋画のタイトルこそが『ランボー』だった。助っ人の名は
マイク・ディアズ。ロッテは92年に現在の千葉へと移転するが、その過渡期、そして激動期を彩った助っ人だった。
派手なアクションで人気を博した『ランボー』だったが、ディアズも腕っぷしは抜群。筋肉隆々の両腕はランボー以上だったかもしれない。選手として平成で最初の退場者になったりもしたが、1年目から全試合に出場して、39本塁打、105打点、打率.301と、打撃3部門で大台を突破。大型トレードで
落合博満が
中日へ去ってから深刻な低迷に陥っていたロッテにあって、まさに主砲といえる助っ人の登場だった。

助っ人ながらマスクもかぶって、捕手として出場した
翌90年には
金田正一監督が復帰。ディアズも33本塁打、101打点、打率.311と2年連続で主砲の役割を果たしたが、それ以上に注目され、印象に残っているのが捕手として起用されたことだろう。助っ人としては珍しいことだったが、マスクをかぶったのは15試合のみ。金田監督のファンサービスという側面のほうが強かった。
その翌91年もマスクをかぶってはファンを沸かせたが、これが裏目に出る。ディアズは守備中に右ヒジを骨折。これで自慢の腕っぷしに陰りが見え始める。以降2年連続で2ケタ本塁打こそ残したものの、本塁打の激減だけでなく安定感も失い、千葉へ移転した92年がラストイヤーとなってしまった。
ただ、ディアズは千葉でも爪痕を残している。強風が名物でもある千葉マリンで、初めてゴーグルを着けたといわれているのがディアズ。これはチームメートの
小宮山悟に受け継がれ、小宮山はロッテの低迷期からの脱却に貢献している。
写真=BBM