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愛すべき助っ人たち

最後は「日本人みんな親切」と涙 阪急の黄金期、ヤクルトの暗黒期を支えたマルカーノ【愛すべき助っ人たち】

 

のちに巨人でサンチェを推薦も……


阪急時代のマルカーノ


 2021年から2年連続で日本一を争ったオリックスヤクルト。ふと、この助っ人を思い出したファンもいたのではないだろうか。オリックスの前身である阪急の黄金時代、そしてヤクルトの暗黒時代を支えたボビー・マルカーノだ。

 阪急では通算1049安打、180本塁打、611打点。助っ人の通算成績では、すべてブーマー・ウェルズに次ぐ2位という好打者だったマルカーノ。決してスマートな身体ではなかったが、俊敏な二塁守備も印象に残る。1975年に阪急へ。「灰色」と評された長い暗黒時代を抜け出して、黄金時代を迎えた阪急は、その功労者である西本幸雄監督から上田利治監督となり、覇権の継承が試されている時期だった。

 もともと二塁守備を評価されての入団で、名手の大橋穣と鉄壁の二遊間を形成したが、うれしい誤算は打撃。1年目から堅実かつ勝負強い打撃で初の日本一を支え、阪急V4の78年には初めて打率3割を突破する打率.322、そして94打点で打点王に輝いている。この日本シリーズで激突したのが初のリーグ優勝を飾ったヤクルトだったが、阪急は惜敗、ヤクルト初の日本一を許している。

ヤクルトでも攻守に活躍した


 その後は長打力も発揮して安定した結果を残し続けたマルカーノだが、阪急は優勝から遠ざかり、世代交代もあって自由契約となり、83年にヤクルトへ。やはり歓喜から遠ざかり、ふたたび低迷を始めていた新天地でも、セ・リーグ初安打を決勝3ランで決め、大杉勝男が引退してからは四番打者を務めるなど活躍を続けた。85年オフに現役を引退。プロ野球でのプレーは11年もの長きにわたった。

 練習中の事故で手放せなくなったメガネがトレードマーク。祖先は日本人という話もあり、日本語は片言だったが、最後は「ヤクルトは、ずっと負けてばかりで悔しかった。でも、日本人が、みんな親切。一生、忘れない」と涙を流して帰国していった。その後は巨人のスタッフとなり、同じベネズエラの出身で、王貞治監督の継投策を担うルイス・サンチェを推薦するなど貢献、現役復帰を目指してトレーニングも続けていたというが、90年に逝去。39歳の若さだった。

写真=BBM
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