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【プロ1年目物語】あわや三冠王にトリプルスリー!? プロ野球史上最高の新人野手・長嶋茂雄

 

どんな名選手や大御所監督にもプロの世界での「始まりの1年」がある。鮮烈デビューを飾った者、プロの壁にぶつかり苦戦をした者、低評価をはね返した苦労人まで――。まだ何者でもなかった男たちの駆け出しの物語をライターの中溝康隆氏がつづっていく。

“4億円”以上の“ゴールデン・ルーキー”


巨人1年目の長嶋


「まき起る長嶋ブームの横顔」

 すべては長嶋茂雄から始まった――。今から67年前、週刊ベースボール創刊号の1958年4月16日号特集テーマは「長嶋茂雄」だった。表紙を飾るのも巨人1年目の長嶋と同僚の遊撃手・広岡達朗だ。当時、昭和33年の週刊ベースボールが一冊30円、銭湯の大人料金が16円の時代に契約金は1800万円。現在の貨幣価値だと4億円以上の“ゴールデン・ルーキー”こと長嶋は、その大金を全額預けた銀行名をうっかり忘れてしまう大物ぶりを発揮(球団に聞いて教えてもらったという)。注目を一身に集めながらオープン戦でいきなり12球団トップの7本塁打を放ってみせた。開幕前から銭湯の下足箱では早くも長嶋の背番号3にあやかり、少年たちの間で3番の靴箱の争奪戦が繰り広げられたが、球団からは当初、川上哲治の16の一つ前、背番号15が提示されていた。しかし、長嶋本人が一桁を希望したため、千葉茂コーチの番号を譲ってもらい、栄光の背番号3は誕生したのだった。

プロデビュー戦で金田と対戦したが4打席連続三振を喫した


 週べ1958年4月30日特大号「プロ野球開幕熱戦号」の表紙を単独で飾るのは、もちろん22歳の長嶋だ。4月5日の国鉄スワローズとの開幕戦では、「三番・三塁」でスタメン出場も、打倒長嶋に燃えた金田正一の前に4打席連続三振デビュー。これには「プロの面目が保たれた」という論調の報道も目立った。翌6日のダブルヘッダーでも第1試合にリリーフ登板した球界を代表する左腕にまたもや三振を喫して、対金田は5打席連続三振の屈辱。第2試合の通算10打席目に三林清二からプロ初安打となるセンターオーバーの二塁打を放ち、4月10日の大洋戦では権藤正利からレフトスタンドへプロ初アーチを叩き込んでみせた。シーズン序盤はしばらく、話題の新人を抑えようと躍起になるプロの厳しい攻めに戸惑うも、その野球界にもたらす“長嶋効果”は社会現象となる。

一気に高まったプロ野球人気


 開幕の巨人対国鉄戦の観客数は、前年の開幕同カードより1万人増の4万5000人。後楽園球場の株価は90円から一気に130円までハネ上がった。それまで六大学野球の人気はプロを上回るとさえ言われていたが、立教大で六大学新記録の8本塁打を放ったスーパースター長嶋の巨人入りで、プロ野球人気が一気に高まる。その期待に応えるように5月中旬になると、プロの水に慣れた背番号3が打ちまくる。5月14日の阪神戦で4安打の固め打ち。18日の国鉄戦では1試合3盗塁を決めた。6月22日の大洋戦では1試合3ホーマーの離れ業だ。瞬く間に本塁打、安打、二塁打、盗塁、得点でリーグトップに立ち、週べ1958年6月25日号には、各球団監督の長嶋評が掲載されている。

「どえらい選手だ。プレー上の成績だけで評価できない。目に見えない力がある」(中日・天知俊一監督)

「長嶋は絶対にパ・リーグが獲得すべきだった。長嶋の人気は実力以上にかえられない“魔力”がある。その魔力をむざむざとセ・リーグにとられてしまった」(西鉄・三原脩監督) 

オールスターでも本領を発揮した


 数字がすべてのプロ野球で、数字以外の面でも人々を魅了した背番号3。その全身バネと称されたスピードと躍動感溢れる華のあるプレーは、同じプロの目から見ても別格のスター性だった。巨人の同僚選手でさえ、入団当初は莫大な契約金に対する嫉妬があったことを認めながらも、世間の異常な注目の中で堂々と戦い抜き、タイトル争いをする規格外のゴールデン・ルーキー長嶋を称賛している。いわば、長嶋は実力で己の存在を先輩たちに認めさせたのである。7月1日の国鉄戦で金田から13号アーチを放ち、8日からは3試合連続本塁打も記録した。前半戦は打率.279、16本塁打、52打点で折り返し、打率以外はリーグトップを快走。三塁手部門のファン投票で断トツのトップ選出されたオールスター戦では、立大時代の盟友・杉浦忠から右中間を抜くタイムリーを放ち、自慢の快足で二盗も決めた。

あわや三冠王の好成績


身だしなみにも気を使っていた


 川上の紹介で世田谷区野沢に下宿していた長嶋は、近所に住む川上の愛車オースチンに同乗して後楽園球場に通った。オシャレで知られ、休日は行きつけの日本橋の後藤テーラーでスーツやネクタイの買い物を楽しむ普通の若者の素顔。それがグラウンドに立つと、誰よりも輝いた。後半戦もその勢いは衰えず、8月6日の広島戦、ダブルヘッダー第1試合で与那嶺要に代わり、初めて四番打者として先発出場。いきなり先制2ランを放ち、8月10日の大洋戦でも19号、20号を連発した。それ以降、現役引退まで「四番・三塁」が長嶋の代名詞となる。

 ゴールデン・ルーキーの大活躍もあり、この年の巨人4年連続のリーグ優勝を飾る。MVPこそ29勝をあげたエース藤田元司に譲るも、長嶋の1年目の打撃成績はセ・リーグ新人初の130試合にフル出場して新人記録の153安打(リーグ1位)を放ち、打率.305(2位)、29本塁打(1位)、92打点(1位)、37盗塁(2位)というあわや三冠王に加えて盗塁王も、という凄まじいものだった。新人王やベストナインはもちろん、本塁打と打点の二冠王を獲得したが、9月19日の広島戦で一塁ベース踏み忘れから本塁打が投ゴロになる、“幻のホームラン”事件がなければ、1年目からトリプルスリー達成……というのも“チョンボのチョーさん”と親しまれた長嶋らしい逸話だ。なお、自著の中でこの幻の一発を本人は楽しそうにこう振り返っている。

「三十打席ぶりにやっと出たホームランだが、“ピーゴロ”になっても気分はもう絶好調。『恥ずかしいの極み』だったが、『いいよ、次に打ちゃいいから』とチョンボにも全くめげなかった。試合が終わると成城の石原裕次郎さんの家を訪ね、一杯飲んで、ご愛嬌のホームランを打ったバットにサインして帰った」(野球は人生そのものだ/長嶋茂雄/日本経済新聞出版社)

 当時、一般家庭のテレビの普及率は10%前後だったが、長嶋のキャリアと歩調を合わせるようにテレビは爆発的に普及し、日本の日常の風景として定着する。そのブラウン管の中で、毎晩のように輝いていたのが背番号3だった。多くの人々にとって、長嶋の存在は自分たちが生きた昭和という時代そのものだったのだ。そして、長嶋を入口にプロ野球は世の中に広まり、国民的娯楽としての地位を確立させていく。

 あの頃、すべては長嶋茂雄から始まったのである。

文=中溝康隆 写真=BBM
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