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【時代を変えた若者たち】1994年イチロー(オリックス)の場合

 

それまでは一、二軍を行ったり来たりの選手だった。しかし94年、仰木彬監督就任で、登録名をイチローに変更。そこから現在まで、ノンストップの快進撃が始まる。

94年のイチロー。表情があどけない


イチローへの改名から伝説が始まる


 まだ何かを成し遂げたわけではないが、いずれは、必ず何かどでかいことをやってのけるであろう若者たちの特集。ここでは3人の先駆者たちの話だ。まずは1994年に奇跡を起こした男から始めよう。93年まで、登録名・鈴木一朗だった20歳の男だ。愛工大名電高時代、2年夏に外野手、3年春は投手で甲子園出場。投手としてプロ指名があっておかしくない資質はあったが、体が細かったこともあり上位指名はなく、三輪田勝利スカウトの慧眼もあって、オリックスに野手として入団した。ただ、指名は4位。大きな期待をされたわけではない。

 その才能は、決して遅咲きではなく、むしろ早熟。1年目から一軍で40試合に出場し、打率.253。ウエスタンでは首位打者に輝き、ジュニア・オールスターではMVPにも輝いている。さらに、そのオフ、河村健一郎コーチの指導で取り入れたのが、右足をゆったり上げ、揺らす振り子打法だった。イチローの打法は、右打者ルーツの打撃フォームの常識とは違っていたが、ある意味、合理的なものだったようにも思う。左打者として打った後に一塁へ走ることを想定し、長打は出づらいかもしれないが、持ち味であるバットコントロールを最大限に生かせた。

独特の振り子打法でも話題に


 だが、一軍定着かと思われた翌93年は、またも二軍生活のほうが長くなる。一軍では43試合で打率.188。ただし、ウエスタンでは規定打席にこそ達していないが、打率.371、92年から46試合連続安打、93年だけでも30試合連続安打と打ちまくっている。

 この時期の話は、イチローのブレーク後、誇張され過ぎた感もある。一軍に定着できなかったのは、独特の振り子打法が、当時の土井正三監督に異端に映ったこともあったかもしれないが、数少ないチャンスで結果を出せばまた違っていた。

 風向きが変わったのは、そのオフ、土井監督に代わり、仰木彬監督が就任してからだ。現役時代は西鉄の野武士軍団の一員、近鉄監督時代も、野茂英雄ら個性派たちを自在に使いこなした指揮官は、この若者のポテンシャルを認め、登録名を「イチロー」とするよう指示した。同時に「パンチ」となった佐藤和弘は大喜びだったが、イチローの反応は微妙だった。後日、「最初言われたときはまいったなと思いましたね。いまはいいけど30歳を過ぎてイチローというのは、恥ずかしいなって」と話している。

 94年は、開幕からヒットを量産。6月1日に打率トップに立ち、25日には打率4割到達とともに、史上最速60試合目での100安打。「信じられないのでは」の質問には「いいえ、そんなことはないです。積み重ねですから」と言い切った。高い技術だけではない。すでに強い信念を持った男でもあった。その後、打率は一度、4割を切ったが、29日には4打数4安打で、再び4割7厘。4割台は、7月9日の69試合目までキープした。

 以後は記録ラッシュだ。8月26日には日本記録の69試合連続出塁、9月14日の日本ハム戦(東京ドーム)で日本新の192安打、20日のロッテ戦(GS神戸)では、前人未到のシーズン200安打を達成した。

「ようやく出ましたね。これだけ200という数字を言われると、どうしたって意識してしまいますよ。これでやっと楽になりました」

 最終的には年間210安打を放った。打率も.385で、もちろん首位打者だ。86年阪神・バースの.389には届かなかったが、70年東映・張本勲の.383は抜き、パ・リーグ最高打率。20歳11カ月でつかんだタイトルだった。

 その後もイチローは常に挑戦者であり続けている。誰か特定のライバルに向けて、ではない。その時々の“常識”に対してだ。今も復帰したマリナーズで、スポーツ界の常識である年齢による衰えが、単なる先入観に過ぎないことを証明しようとしている。これはもはや、人間の限界に対する挑戦ではないか。さすがイチロー、としか言いようがない。

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