週刊ベースボールONLINE

【時代を変えた若者たち】1995年松井稼頭央(西武)の場合

 

当初はプロの厚い壁に苦しんだが、スイッチ転向から道が開ける。
抜群の身体能力で、スターへの道を一気に駆け上がった。


躍動という言葉がよく似合う選手だった


圧巻の身体能力で一気にブレーク


 42歳、球界のレジェンド、西武松井稼頭央が、ド派手なブレークを果たしたのは、21歳で迎えた96年の日米野球だった。

 第5戦から田中幸雄(日本ハム)の代役で出場すると、以後18打数10安打、5盗塁をマークし、メジャー関係者からも絶賛された。さらに97年1月に放映された『筋肉番付』には、今度はチームメートの高木大成の代役で参加。ハンサムで少しヤンチャそうな顔、ユニフォーム姿では分からなかった体操選手のような筋肉、そして驚異的な身体能力を見せつけて優勝を飾り、女性ファンを中心に人気が爆発した。

 同年春のキャンプのインタビューでは「たくさんのファンレターをいただいたんですが、『私は野球の実績とか、松井さんが去年どのくらい打ったとか、西武が何位とか知りません。筋肉番付を見てファンになりました』というのが多いんです。今年は自分の職業で名前を売りたいですわ」と話していた。

 この男もまた、イチローと同じく、投手からの転向組。やはり開花まで、少し時間がかかった。

 PL学園高時代、2年生でのセンバツ、背番号1で出場。ただ、当時はヒジを痛めており、準々決勝まで登板はなく、その試合も3回途中2失点で降板している。その後もケガが多く、きちんと投げられたのは、大阪大会決勝で敗れた3年夏だけだったという。

 93年秋のドラフトで西武が3位指名。投手ではなく、野手でだった。守備位置はショート。その身体能力は別格で、西武第二球場で遠投テストをした際、120メートル先のバックスクリーンを越え、測定不能となったほどだ。ただ、身体能力だけで務まるほどプロは甘くない。1年目は一軍出場なし。二軍では90試合出場、打率.260、4本塁打、11盗塁の成績が残る。

 当時は右打ちだったが、2年目の95年マウイ・キャンプの際、谷沢健一コーチに「1年間、遊びでいいから左打ちを練習しろ」と言われた。これは試合でどうこうではなく、右腕の使い方が課題と感じた谷沢コーチが矯正のために出した指示だった。

 その年は後半に入って一軍に昇格し、69試合に出場。21盗塁と足ではアピールしたが、打率は.221、特に右投手に.190と苦しみ、自分からコーチに「スイッチで足を生かしたほうが」と申し出た。本格的には、そのオフ、ウインター・リーグに参加してからだったが、あまりに左で打てず、「向こうのチームの監督に禁止された」と笑う。その後、ウエート・トレーニング中に腰を痛めて急きょ帰国。秋季キャンプに合流後、新任の土井正博コーチとともに、左打ちを徹底的に練習し、少しずつ自分のものにしていった。

 96年、東尾修監督が開幕からスタメンに抜てき。ただ、序盤はまったく打てなかった。松井はのちのインタビューで次のように語っている。

「4、5月は野球人生の中で一番悩んだと思います。なんで打てへんのって、ずっと思っていた。東尾さんが我慢強く試合で使ってくれたんで、僕もなんとかせな、と思って、早出特打ちをしたり必死にやった。東尾さんには、ほんと感謝しています」

 夏場から調子を上げ、終わってみれば打率.283、盗塁はリーグ2位の50盗塁。そして、そのオフ、日米野球、筋肉番付があった。

 翌97年、背番号を32から7にした松井は、金髪をトレードマークに躍動した。打率.309、62盗塁で初の盗塁王、瞬発力と強肩を生かした華麗なショート守備も光り、ゴールデン・グラブも手にしている。

 松井のすごさは進化を継続したことだろう。同年7本塁打で、足の選手の印象があったが、その後、ホームランも急増。02年は36本塁打を放ち、トリプル3、も達成している。

 高い身体能力だけではない。現状に甘んじず、常に上を目指す姿勢こそが、ブレークし、継続して結果を残す選手の“絶対条件”と言える。

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング