ドラフトからプロの世界へ飛び込むルーキーがいる一方、今季限りで現役生活に別れを告げ、ユニフォームを脱ぐ選手がいる。いつかは訪れる最後の瞬間――その決断を下した主な選手たちを紹介する。 ※2025年12月5日までに引退を表明した主な選手になります。
※年齢は2025年満年齢 【Part.2】はこちら 【Part.3】はこちら 中日・中田翔 やんちゃで無邪気な“大将”
「僕にとって野球は宝物。本当に幸せでした」 一時代を築いたスラッガーがバットを置くことを表明したのは、まだシーズン途中の8月15日のことだった。
「満足のいくスイングができない、思いどおりに体が動かないというのを感じて、これ以上チームに迷惑を掛けられないと思い、そういう決断をしました」
プロ18年目となる今シーズンは六番・一塁で開幕スタメンを飾ったものの、腰痛からの打撃不振もあって5月中旬に登録抹消。二軍での調整を経て8月7日に一軍復帰を果たしたが、代打で3打席凡退。わずか5日で再び登録抹消となり、それからわずか3日後に引退会見が行われることになった。
広島県出身。強豪の大阪桐蔭高へ進学すると、1年夏には早くも五番・一塁で甲子園出場。秋からはエースナンバーも背負い、2年春には151キロをマークした。二刀流にして高校通算87本塁打と“平成の怪物”と呼ばれ、2007年秋の高校生ドラフトで4球団(
日本ハム、
阪神、
ソフトバンク、
オリックス)競合の末、日本ハムに入団。同年オフに引退した
田中幸雄が長く着けていた背番号6を譲り受けた。
ルーキーイヤーは一軍出場はなし。2年目の09年に一軍デビュー、ファームではイースタン記録となる30本塁打で95打点も最多タイと高卒2年目にして格の違いを見せつけた。4年目の11年に左翼の定位置を奪って四番に座り、
栗山英樹監督が就任した12年は四番で全試合出場。以降、打線の柱としてチームをけん引した。
14、16、20年と三度の打点王。通算309本塁打を放ちながら、本塁打王のタイトルがないのは意外だが、これは中田の野球観によるものでもある。
「本塁打は打てるに越したことはないですけど、勝利に直結する打点に価値を置いています。チームが勝つために必要なのはどちらかという話。毎年30本塁打よりも毎年100打点を打ちたいし、そちらのほうが難しいですから」
勝負強い打撃で侍ジャパンの四番も任された。国内FA権を取得してもチームに残留し、18年からは主将も務めたものの、21年8月に後輩への暴力行為が発覚。無期限出場停止の措置後、
巨人へ無償トレードとなった。移籍2年目となる22年は夏場にかけて復調。91代目となる巨人の四番に座った。しかし23年のオフ、出場機会を求めてオプトアウトの選択を決断して中日へ移籍した。
3球団目となった中日は慢性的な得点力不足に悩まされ続け、その期待を背負っての入団ではあったが、度重なる故障にも見舞われて力を発揮できず、シーズン途中での引退となった。
9月19日に本拠地バンテリンで行われた引退試合は・・・
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