昭和生まれのレジェンドの皆さんに、とにかく昔話を聞かせてもらおうという自由なシリーズ連載。1982年のセ・リーグMVP捕手・中尾孝義さん(元中日ほか)の3回目は、中日時代のお話です。 文=落合修一 球界に革命を起こした捕手
──プリンスホテルからドラフト1位で1981年に中日へ入団。すぐにレギュラーになったのですか。
中尾 その時点の正捕手はベテランの
木俣達彦さん。まだまだ打てるし、肩もそんなに弱くないし、どうしようと思いました。しかし、いろいろな人に聞くと、木俣さんはブロックしないし、走者が一塁に出ると(二盗を刺すために)真っすぐしか投げさせないらしい。そこから抜いていくしかないなと。
──足が速くて、すばしっこくて、スマートで、中尾さんは新しいタイプの捕手でした。
中尾 あの当時、捕手のミットは「アンパン」と呼ばれ、厚くて重かったんですよ。投球を受けるときは右手をミットの後ろに添えて、両手を使わないと捕れない。でも僕は素早く動くために左手だけで捕りたかったものだから、ミズノの人と一緒に、親指の綿を取って薄くして、小指の部分も半分薄くして、と軽くするために改良を重ねたんです。現在主流のキャッチャーミットは、僕のミットが原型なんですよ。
──
前回の話に出た捕手用ヘルメットといい、中尾さんは現代型捕手のスタイルのパイオニアですね。
中尾 高橋慶彦(元
広島ほか)から聞いたんだけど、僕が中日に入るまでは、バントをするときは「打球を殺せ」と言われていたらしいんです。捕手の前に落として捕手に捕らせろと。しかし、素早く動いて打球を処理する僕が入ってからは「一塁の方向に転がせ。一塁手に捕らせろ」となったそうです。
──球界に革命を起こしましたね。話を戻すと、81年のスタメンマスクは中尾さん77試合、木俣さん46試合(ほか
大河原栄7試合)。
中尾 開幕戦(4月4日、
巨人戦=後楽園)の先発は木俣さんだったんですが、僕も途中から木俣さんの代走に出ました。翌日は僕が先発して、それからちょこちょこ出るようになりましたね。ラッキーだったのは・・・
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