昭和生まれのレジェンドの皆さんに、とにかく昔話を聞かせてもらおうという自由なシリーズ連載。西武ライオンズ黄金時代の右のエース・渡辺久信さんの最終回は、1999年から台湾プロ野球で選手兼任コーチとして活動して以降のお話を伺いました。 文=落合修一 
渡辺久信
監督要請を断った理由
──
前回からの続きです。渡辺さんは1999年から3年間、台湾プロ野球の嘉南勇士というチームで外国人選手として大活躍だったわけですが、日本における
クロマティ(
巨人)や
ランディ・バース(
阪神)のように、高待遇・高年俸だったわけですか。
渡辺 あちらに行って2年目だったかな。選手としてすごく活躍をして、コーチとしても貢献したので給料の金額を上げようかと球団から提案されたのですが、断りました。
──なぜですか。
渡辺 日本で一度は引退した34歳に、このチームのピッチャーのことを全部任せると言ってくれて、春季キャンプの練習メニューにオープン戦、公式戦のローテーション、誰を抑えにして誰を中継ぎにするのか、試合前の練習メニュー、試合の中の投手交代まで全部決めさせてくれたんですよ。そんなのやらせてくれるチーム、ないじゃないですか。自分がマウンドで投げているときでも、自分はそろそろ代わったほうがいいと判断したら自分でタイムを掛けて、監督を呼ぶ。そんな感じで自由にやらせてもらったから本当に、もうそれだけで私の財産でした。
──それで選手として大活躍して、給料は上げなくていい。球団にとってはありがたい選手兼任コーチだったんですね。
渡辺 本当に、選手として稼ぐためではなく指導者の勉強のつもりで行っていたのでね。私の野球人生にとっても、台湾に行った価値がありましたから。
──台湾で3年間を過ごし、2001年限りで退団。ここで本当に現役生活にピリオドを打ったわけですね。
渡辺 36歳だったのですが、体力の限界を感じたわけではなかったのです。3年目の夏くらいだったかな。現地の新聞の1面にデカデカと出ちゃったんですよ。翌年の監督に就任するって。
──根も葉もない噂でしたか。
渡辺 それが本当に要請されていたのです。来年から・・・
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