
1958年の西鉄ライオンズ[現西武]と言えば3年連続で巨人を倒して日本一になる全盛期だったが、その西鉄から土橋は1試合16奪三振[打者は中西]
プロを目指す気はまったくなかった
良い投手の条件とは何か。その答えは人によって違うだろう。だが大別すれば「圧倒的な剛速球を投げる」、「決め球となる変化球を持つ」、そして「優れた制球力を誇る」の3つではないだろうか。だとすれば、1950年代末から60年代中盤にかけて東映フライヤーズ(現
北海道日本ハムファイターズ)のエースとして鳴らした
土橋正幸は、この上なく「良い投手」だったと言えた。なぜならば、土橋はこの3つの条件をすべて兼ね備えていたからだ。
強靭(きょうじん)な上半身を生かしたスリークオーター気味のフォームから投げ込まれる剛球はパ・リーグ随一で、西鉄(現西武)のエースだった
稲尾和久によれば「150キロは出ていたと思う」。得意球のスライダーは鋭く、今で言うカットボールのような変化を見せた。そして抜群のコントロール。通算与四死球率1.40は、NPB歴代1位(2000投球回以上)である。生まれも育ちも浅草。せっかちに見えるほどテンポよく投げる様から、土橋のピッチングは「江戸っ子投法」とも呼ばれた。土橋が投げると試合が早く終わるため、審判はその登板を喜んだという。
それほどの能力を持ちながら、土橋はもともとプロ野球を目指すつもりなどまったくなかった。日本橋高を卒業後、土橋は実家の魚屋を手伝いながら仲間たちと軟式野球を楽しんでいた。助っ人としてストリップ劇場が持つチームで投げたこともある。そんな土橋が19歳の夏に東映の入団テストを受けたのは、たまたま友人に誘われたからだった(その際、サンダルや長靴を履いて臨んだという伝説があるが、本人は否定している)。受験者数400人超の難関テストに、地肩の強さを見込まれ合格したことで「魚屋の兄ちゃん」だった土橋の人生は変わった。
我流ゆえ当初はコントロールに難があったが、厳しい指導を受け、連日数百球の投げ込みを繰り返したことで、制球力は徐々に改善されていった。そして・・・
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