週刊ベースボールONLINE

球界200人が選んだ!史上最強の速球王ランキング

「史上最強の速球王特集」・編集長総括コラム

 

出でよ!本物の速球王を育てる好打者!!


文=小林光男[本誌編集長]、写真=BBM
 伊良部秀輝(元ロッテほか)の剛速球が今も色あせずに野球ファンの記憶に刻まれているのは、清原和博(元西武ほか)というライバル打者が存在していたからだと思う。1993年5月3日、西武球場で行われた西武対ロッテ。3点ビハインドの8回裏からマウンドに上がった伊良部は四番を打つ清原と相対した。このとき24歳だった背番号18は、前年までのプロ5年で通算13勝と、まだその殻を破りきれていない若手投手の一人だった。

 しかし、伊良部は2歳上の球界屈指のスラッガーに対して直球勝負を挑む。初球151キロで見逃しストライクを奪うと、2球目は156キロでファウル。さらに3球目、勢いを増した速球が清原に襲い掛かる。清原はかろうじてバットに当てたが、西武球場に電光掲示板に記された数字は「158」。当時の日本最速に球場内がドッと沸いた。捕手の青柳進は「焦げたようなにおいがした」と証言していたから、まさに異次元の衝撃だったのだろう。

若き日の伊良部。清原と名勝負を繰り広げながら成長していった


 続く4球目もファウルとなったが、再び「158」をマーク。意地と意地のぶつかり合い。球場中が直球勝負を望んでいるところで、全身全霊を込めて伊良部は右腕を振った。「三振してもいいと思って振ったのが良かったと思う」とフルスイングでこたえた清原は、157キロの直球を見事にとらえると打球は右中間へ。二塁打となったが、清原は「打席でほんまに怖かった」とその迷いのない剛速球を称え、誰もが名勝負の萌芽を予感した。

 のちに巨人時代の清原が2005年4月21日の阪神戦(東京ドーム)で10対2と阪神大量リードの7回裏二死満塁で藤川球児と対戦した際、決め球にフォークを選択され空振り三振を喫して、直球勝負を挑んでこなかったことを激しく批判。そういった言動に及んだのも、やはり清原の脳裏には伊良部との対決がくっきりと刻まれていたからだろう。

 尽誠学園高時代から速球派として鳴らしていた伊良部。「僕の場合は体も大きいですが、腕もある程度長い。そういう肉体的な条件のほかに、投げるタイミングの中で、上手に力を“爆発”させる感じというのをなんとなく分かってきてからだと思いますよ。スピードが出るようになったのは」と剛速球をマスターした理由を語っていたが、本誌では清原との勝負も振り返っている。「清原さんだから(158キロが)出たのかもしれない。いつも清原さんの気迫がすごくて、僕も触発されるというか、駆り立てられます」

 同年、伊良部は8勝を挙げて飛躍のきっかけをつかむと、翌年には15勝をマークして最多勝を獲得。ただ単に速いだけの投手から脱皮し、球界を代表する投手へと羽ばたき、「分かっていても対応できない。投げたと思ったらズドーンとミットに入っていた。質が違ったよ」と多くの対戦打者が語ったように、その剛速球は伝説の域に達した。

 現在の球界でも大谷翔平(日本ハム)をはじめとして、魅惑の剛速球を擁する投手は数多くいる。彼らが“本物”となるためには、「伊良部にとっての清原」のような存在が必要だと思う。逸材の奥底に眠る能力を開花させるような媒介者。伝説の速球王を育てるような力を持った打者が出現することもまた、大いに期待したい。
特集記事

特集記事

著名選手から知る人ぞ知る選手まで多様なラインナップでお届けするインビューや対談、掘り下げ記事。

関連情報

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング