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網羅的に古今の内野守備の名人の名を挙げるのもいいが、今回は、バッティングは無視して、しかも、徹底して筆者の好みに偏したスペシャリストたちを取り上げてみたい。この偏愛、実際にそのプレーをこの目で見たからこそ生まれるものであって、彼らは1人のファンを間違いなく一目ボレさせる魅力の持ち主だった(文中敬称略)。
文=大内隆雄 写真=BBM

 6月16日号で「独断的速球投手論」というのを書いたが、速球投手のボールの速い、速くない(遅いとは書けない)は、あくまでも目の感覚で、スピードガン時代になってもそれは変わらない。150キロでも「な〜んだ」とまったく迫力を感じさせない投手もいれば、148キロでもグ〜ンと来て「ウオ〜ッ」となる投手もいる。ただ、これはあくまでも筆者の目が感じたもので、人によっては、筆者と正反対の感じを持つかもしれない。「独断的」という表現を使ったゆえんである。

 さて、今回は内野の守りのスペシャリストの話。守備の上手下手には、独断という表現は使えない。一目瞭然、見てのとおり、それが内野手の守備だからである。下手な内野手を独断という表現でかばったり、救ったりはできない相談。

 じゃあ、だれに相談すればいいのか!? これはもう「偏愛」という自分の好みに聞くしかない。守備力に甲乙つけがたい2人の内野手がいたとする。さあ、あなたはどちら選ぶ? これはもう好みの問題。従って今回は、筆者のこよなく偏愛するプレーヤーたちをご紹介する。読者の好みではない内野手が登場しても何とぞご容赦のほどを。

 80年の歴史を有するプロ野球。1人のウオッチャーが熱視できる年数とプレーヤーの数などタカが知れているが。筆者の場合、1968年から80年代後半までに限定される。主にこの間に活躍したスペシャリストたちを取り上げてみたい。68年は上京した年。田淵幸一(阪神ほか)、山本浩二(広島)、星野仙一(中日)、山田久志(阪急)、福本豊(阪急)、東尾修(西武ほか)らが、プロ入りしようか、という年だ。

 ここから、原辰徳(巨人)、槙原寛己(巨人)、清原和博(西武ほか)、桑田真澄(巨人)らが一流選手に成長していく時代までの約20年。ここを中心にしたい。

 5月5日号で「『伝説の二塁手』たちの“見せて魅せる”プロ野球」というのを書いたが、この時は神話時代、つまりプロ野球草創期の名人二塁手から始めたのだが、これは失敗だった。この目で見たことのない選手のことを書くのは、どこか後ろめたさがあるものである。書物や本人、他人から聞いた話からだけで作り上げるのは、心苦しいのだ。「講釈師、見てきたような……」になるのがオチだからだ。

自分の打撃練習時にショートを守ってしまう大橋は遊撃を超「偏愛」


 そういうワケで今回は、年代は順不同で自分の偏愛度の強い選手から取り上げることになる。5月5日の原稿の末尾に、こっそり? 大橋穣遊撃手(阪急ほか)の名前を忍び込ませておいたが、これは、まさに筆者の偏愛のなせるワザだった。二塁手の特集なのだが、どこかでこの人の名を出したい。そこで大下剛史二塁手(東映ほか)の名前が出たついでに、相棒の遊撃手は大橋だったと書いてしまったのである。

大橋穣 その圧倒的な守備範囲の広さが際立った球史に残る名手だった



 亜大時代の大橋はほとんど記憶にない。神宮では六大学しか見ていなかったからである。じっくり見たのは、69年の後楽園球場だった。東都のホームラン王。球団もファンもその長打力に期待する。守備のことはほとんど話題にされなかった。ところが!

 まず、その守備位置の深さに驚いた。巨人の黒江透修遊撃手より、5、6メートルは深いところに守っている。だから打球が大橋の左右を抜けないのだ。捕ったら正確無比のスピードボールが一塁手のミットにバシ〜ン。強肩だから、深く守っていても楽に間に合う。ウ〜ン、と唸るしかなかった。

 隣を守る大下二塁手、実は駒大時代、東都史上に残る名遊撃手と言われた人なのだ。事実、東映入団の67年、翌68年は正遊撃手だった。ともに規定打席に到達し、67年129安打、68年132安打と「打てるショート」でもあった。大下がポジションを脅かされることなどあるハズがなかった。

 が──。大橋は大下を1年目から押しのけてショートに入った。そこから3シーズン、大橋はほぼフル出場して、正遊撃手。ショート以外は三塁を2試合守ったのみ。しかし、3シーズンの打率はいずれも規定打席に届かず。.217、.183、.213とお寒い限りだった。“売り”のハズの長打力も本塁打が8、7、7。まあ、フツーなら使ってもらえなくなる数字だ。しかし、大橋はショートを守り続けた。それは先に書いたように、日本人のレベルをはるかに超えた守備力の持ち主だったからである。

 1年目、松木謙治郎監督が遊撃で使い続けたのは、ドラフト1位ということもあったろうが、前年の68年、大下遊撃手が27失策を犯したことも頭にあったかもしれない。大橋を使ってみたら、これなら「打撃に目をつぶっても」となったのだろう(本来は打を期待された選手なのだから皮肉だ)。

 松木よりも、さらにその守備力に注目していた監督がいた。阪急の西本幸雄だ。71年の巨人との日本シリーズに敗れた阪急は、これで巨人に4連敗。チームをガラッと変えなければダメだ。阪本敏三遊撃手は71年のベストナイン。その選手と大橋を交換してしまったのだ!西本の勘は恐るべきものだった。

 以後、大橋は最強阪急を守りで支える男になっていくのだから。大橋は72〜76年ベストナイン、72〜78年ゴールデングラブ(当時はダイヤモンドグラブ)に輝くのだが、76年は規定打席に足りない打率.191でベストナイン。いかに記者たちが大橋の守備力を高く評価していたのが分かる。ゴールデングラブは創設時から7年連続受賞。同賞で遊撃手7年連続受賞はパ・リーグでは大橋のみ(セ・リーグでは大洋・山下大輔の8年連続が最多。山下については、のちに触れる)。

 同僚の山田は「大橋さんはダイビングキャッチを嫌った」と言っているが、そんな必要はなかったのだろう。肩、足、位置取りで十分なのだ。また、福本は「西宮球場の芝を大橋さんが守りやすいようにかなり削った」と言う。それだけ深い守りだったのだが、福本はこうも言う。

「あの人、自分の番でもバッティング練習をやらんのや。嫌いや、言うて。気がついたらいつもショートで守っている」

 大橋は自らの遊撃守備をそれこそ「偏愛」していたのである。6月16日号の山口高志同様、最初の登場人物で行数を食ってしまったが、偏愛なのだから仕方がない。

長嶋が下手に見えたボイヤーのスーパー守備
山下がそれを受け継ぐ


 さて、次は三塁手に行こう。ここはもうクリート・ボイヤー(大洋)しかいない。ヤンキースで7シーズン正三塁手を務め、ブレーブスを経て72年に大洋入り。この年35歳になっていたが、打球に対する判断力は、あの長嶋茂雄(巨人)の動物的カンなど問題ではなかった。三塁線を破った! と誰もが思った打球に、体を1本の棒のようにして飛びつき、片ヒザをついたまま、強烈なスナップスローで一塁で刺す。二塁打が三ゴロになるのだから。投手は助かったなんてものじゃない。一塁に走者がいれば、セカンドを見ないでそのまま送球。あっという間にゲッツーだ。

ボイヤー 三塁線の球際の強さ、正確なスナップスローで何度もチームの窮地を救った



 何度も書いたことだが、筆者はこのボイヤーの守備を見て「ああ、長嶋は下手なんだ」と思ったことだった。もともと三塁線には強くなかった長嶋だったが、その年は36歳。さすがに衰えがきていた。72年、ゴールデングラブの三塁手部門は長嶋とボイヤーの両者受賞となったが、筆者は「ボイヤーオンリーだろう」と首をひねったものだった。

 このボイヤーと74年から三遊間を組み、ボイヤーがコーチとなってからは、マンツーマン指導を受け、守備だけでカネを取れるプレーヤーに成長したのが先述の山下大輔だ。山下のことは慶大1年時からウオッチングしているから、その守りは、見飽きるほど見ている。しかし、うまいと思ったことはなかった。2学年上の早大の遊撃手・田中伸樹(のち東京ガス監督)があまりにうまかったからだ。

山下大輔 フットワークの良さと捕ってから早く正確なスローイングで8度のゴールデングラブ賞に輝いた



「あいつ、捕ってないでしょう。グラブに当ててそのまま右手に移している」

 と驚嘆したのは、同学年で慶大のキャプテンだった松大勝実(のち松下電器)。まったくそのとおりで、目にも止まらぬ早ワザだった。だから、山下がうまいとは思えなかったのである。

 しかし、プロに入って、恐らくボイヤーにスナップスローの重要性を学んだのだろう。吉田義男(阪神)が6月2日号で、現代のショートが捕ってから投げるのが遅いと嘆いていたが、早かったショートの名を1人挙げた。ヨッさんは「大洋の山下大輔君は早かった。彼の守備は見事だった」と語っている。

 スナップスローができて、早く投げられれば、これは鬼に金棒である。さらに広岡達朗(巨人)は、山下の素手捕り(三塁手になってからだが)を「あれは見事。山下にしかできない」と称賛しているが、これもスナップスローができないと打者をアウトにするのは難しい。

松原の“たこ足”にファンは大喜び
辻の「なんでそこに?」の驚き


 もちろん、山下だって一塁悪送球はあった。それを救ったのが松原誠だ。両脚を180度開いてペタリと地面につけて、バウンドが難しくならないところでスッポリ。右足も離れない。この原稿を書いてすぐ、松原を取材することになっているのだが、その話をお伝えできないのが残念だ。

松原誠 難しいバウンドの送球もなんなくさばいた松原。打撃力だけでなく一塁守備も絶品だった



 川崎球場、横浜球場のファンは、難しい送球でなくても、この両脚ペタリ捕球を要求したものだ。また、松原はその要求に応えたから、まさに見せるプロだった。その昔、イーグルスに“タコ足”と呼ばれた中河美芳という一塁手がいたが、恐らく松原と同じような捕球だったのだろう。松原は62年、捕手で入団したのだが、一塁、三塁、遊撃といろんなところを守らされ、一塁で安定したのが71年から。

 71年と言えば巨人のV9真っただ中。72年からゴールデングラブの表彰が始まったが、どうしても王貞治(巨人)の風下に立たされてしまった。記者たちも、松原の方がうまいと思っても、王という名前に対して逆風を起こすことはできなかったのである。このへんも松原に聞いてみたい。松原は打者としても超一流で通算2095安打。30本塁打以上3回、78年には45二塁打のセ・リーグ記録(当時)を作っている。

 さあ、残るは二塁手。ここは、西武の辻発彦しかいない。高木守道(中日)は別格だが、こちらは5月5日号を読んでいただきたい。吉田遊撃手についても、6月2日号を参照してほしい。

辻発彦 天才的なポジショニングで西武黄金時代を支えた辻。間違いなく球史に残る名内野手だ



 さて、辻だが、意外なほど大きく182センチ、78キロの体を誇る。これだけ大きいと、小回りはきかないだろうと思われるが、ゴールデングラブ8回。これは二塁手では最多記録。辻は、変な言い方になるが、“二塁手の福本”であり、「エッ!? なんでそんなところに」の連続で、スタートの速さと位置取りのうまさは天才的だった。

 特に一塁のカバーリングは絶品だった。彼は、いわゆる猿手(両腕をそろえて伸ばすと、その内側がピタリとくっつく)だが、これが不利にならないようなグラブを作らせたそうな。素人には分からない所で名人たちは工夫しているのだ。

 筆者の偏愛物語はここまで。
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