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広島は過去6度の優勝を果たしている。そのうち、連覇を含む3度の日本一にも輝いた。その黄金期の立役者として忘れてはならないのが、外国人選手の存在だ。あふれんばかりのパワーはもちろん、知的でまじめで個性あふれる彼らは、ファンからも愛された。そんな黄金期を支えた助っ人たちをここで振り返っていく。

初Vに導いた2人の存在


右:シェーン[1975年成績]117試合 105安打13本塁打 56打点四死球38 打率.281、左 ホプキンス[1975年成績]130試合 127安打33本塁打 91打点四死球46 打率.256


 広島が初優勝を飾った1975年、当時の外国人枠は2のみだった。各球団はこの枠を精いっぱいに使い、チーム強化を行うのだが、巨人だけが出遅れた。最初に獲得を目指したケン・マクマレン(65年のワシントン・セネタースから72年のカリフォルニア・エンゼルス時代にかけて五番打者として大活躍)にフラれ、結局、ジョンソンの獲得に至るのだが、そのジョンソンが打率1割台の大誤算。長嶋巨人の最下位の原因はここにもあった。

 その巨人の低迷が広島、阪神中日ヤクルトによる混戦を生み、広島初優勝の道のりを作ったのだ。4枠のために6人も7人も外国人選手を抱える現在とは違い、獲ったら最後、その選手と心中の時代だった。

 そんな中、広島の新監督・ルーツが連れてきた、シェーン、ホプキンスの両外国人への期待度は高かった。シェーンことリッチー・シェインブラムは前年までカージナルスに所属したスイッチヒッターの外野手。ルーツ監督は前年の戦いを反省して「一線級の右投手が出ると、いつも抑えられて負けていた。ピッチャーを含めて3人打てない選手がいるだけで、1試合で3イニングをムダにすることになる。だから順応性のあるスイッチヒッターを獲ってきたんだ」とシェーン獲得の理由を説明した。

 メジャー歴8年、72年カンザスシティー・ロイヤルズ時代に134試合に出場して450打数135安打の打率.300、8本塁打、66打点をマークした打棒は本物だった。5月17日の大洋戦ではプロ野球史上初の左右両打席本塁打。このシーズン、主にクリーンアップの後の六番を打ち、打率.281、13本塁打、56打点の成績を残した。年俸は1500万円(推定)。この年の外国人選手で最も高額年俸だったと見られるのがビュフォード(太平洋)の2800万円で、王貞治は初の三冠王となった74年に初めて5000万円を超えたと見られる。

 シェーンほど期待はされていなかったが、日本により順応したのがホプキンスだった。シェーンとは同じ歳で72年のロイヤルズ時代にルームメートだったという縁。縁と言うより、ルーツの計算によって広島に導かれたと言えるだろう。75年、2月19日の誕生日に晴れて理学博士となって26日に来日。27日には日南キャンプに合流するという勤勉さだった。

 近鉄・西本幸雄監督は「フォームに無理がない。広島はいい選手を獲った」と感心し、山本一義プレーイングコーチは「レベルスイングの手本を見るようだ」と感嘆した。そのスイングでチームトップの33本塁打を放ち、クリーンアップの役目を務めた。タバコを吸う選手には「その煙が運動能力を14%低下させるんだ」と、注意を与える勤勉外国人が、76年限りでチームを去り、1年南海でプレーした後、帰国し医師となったのは有名な話。

 15試合に指揮を執った後、辞任に至ったルーツ監督が、初優勝に残した功績の一つに、2人の外国人選手補強があった。

効果的な起用で日本一


 79、80年は2年連続日本一の年。そのチームで四番・山本浩二の前を打ったのがライトルだ。広島には77年に入団。メジャー通算8年で打率.243、9本塁打、70打点だったが、初のリーグ制覇に貢献し、76年にはさらに打撃成績を上げたシェーンを切ってまで入団させた古葉竹識監督肝いりの選手である。

 実物を見た瞬間、「三番を打たせたい」と惚れ込んだ上からたたきつけるようなシャープなスイングが日本野球に見事に適応した。数学と化学の高校教師のライセンスを持ち、酒は飲まず趣味は釣り。日本行きを頑なに反対する夫人をひきずって来日する亭主関白ぶりも日本向きだったようだ。

ライトル[1979年成績]130試合 133安打23本塁打 61打点四死球43 打率.264[1980年成績]130試合 142安打23本塁打 82打点四死球32 打率.280



 古葉監督は79、80年と直感どおり主に三番打者で起用。79年は打率.264、23本塁打、61打点、80年は打率.280、23本塁打、82打点。その打撃以上に「私は強い肩と正確な送球が持ち味」と、ライト・ライトルで存在感を発揮した。

 79年の初の日本一に貢献したのがギャレットだ。ライトルとともに77年に広島に入団。78年4月に月間15本塁打(当時の日本記録)を打つパワーヒッターだったが、波が大きかった。79年は近鉄との日本シリーズ。1、2戦目で結果を出せず、チームも連敗すると3戦目はスタメン落ち。しかし、途中出場した7回の打席で中前に逆転2点適時打を放って、シリーズの流れを呼び込んだ。

ギャレット[1979年成績]126試合 89安打27本塁打 59打点四死球61 打率.225



「先発を外され、かえって燃えた」。しかし、この年の27本塁打のパワーと引き換えに、80年は守備で魅せるデュプリーを加入させる。

 80年、外野守備で127試合無失策のデュプリーの見せ場は開幕戦と近鉄との日本シリーズで完結する。開幕戦でサヨナラアーチ。日本シリーズでは第3戦の同点の9回、シングルヒットで一塁から一気にホームを狙い、捕手・梨田の落球を誘って決勝点をもぎ取った。「二死だったからメチャクチャ走った」。雨天中止となったグラウンドでスライディングのパフォーマンスの先駆者で、その成果(?)を発揮した。

デュプリー[1980年成績]127試合 122安打10本塁打 40打点四死球20 打率.266



 84年のチームにはアイルランドが在籍。83年から広島に所属し、その年打率.293、12本塁打、44打点の成績を残したが、84年は打率.254、6本塁打、23打点と成績を落とした。ガッツあふれる二塁守備で貢献した外国人だった。また、同年23試合にリリーフ登板したレーシッチは球団初の外国人投手。

 その後、広島は86年、91年にもリーグ優勝を飾った。86年は日本人選手のみで戦っての日本一だった。91年に在籍したのはアレンとバークレオ。アレンは68試合、バークレオは29試合の出場にとどまった。
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