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史上最強の監督は誰だ?

球団別最強の指揮官を探せ! 栄光をもたらした男たち【中日・DeNA】

 

特集第2章は現存の12球団の歴史の中から編集部で球団史上最強の監督を1人、忘れられぬ個性派指揮官を1人選んで紹介していく。

中日・星野仙一[1987-91、96-01]


767勝670敗27分、勝率.534優勝2回/日本一0回


自由奔放のチームを戦う集団へ変えた熱血漢


 39歳の若さで中日の指揮官となった。良くも悪くも自由奔放だったチームから甘えを一掃し、厳しさを前面に押し出してチーム改革に乗り出した。就任と同時に3度の三冠王となった落合博満をトレードで獲得するなど、常にチームに刺激をもたらし、ぬるま湯に浸かることを許さなかった。鉄拳制裁も辞さず、現役時代同様に“打倒・巨人”を掲げて先頭に立ってチームを引っ張った。就任2年目で優勝という結果を出したのはさすがだった。

 4年の時を経て96年にカムバックを果たす。97年から本拠地がナゴヤドームとなり、投手陣を中心としたディフェンス野球へと切り替え、99年に11年ぶりのV。ドラフトやFAでも幅広い人脈を活用し、優秀な選手を次々と獲得した。アメとムチを巧みに使い分け、ミスした選手には必ずチャンスを与えるなど、非情の中にも温情がある監督だった。選手に求めたのは何よりも闘争心。戦う姿勢が見られない選手は容赦なく切り捨てた。

 通算11年で優勝2回は決して多くはないが、気ままだったチームを戦う集団に変貌させた功績は大きい。通算767勝は球団歴代トップである。

PICK UP わがチームの個性派指揮官・落合博満


[2004-11]


徹底して貫いた勝利至上主義

 8年間で4度のリーグ優勝を果たした落合政権。その根底にあったのはチームの勝利が最優先であり、それ以外は排除するというシンプルな考えだ。ベテランもルーキーも関係ない。実力のある選手を起用し、ひたすら勝利を追求した。そのためチーム情報も漏らすことなく、共存共栄のマスコミとも距離を置いた。「勝つことが最大のファンサービス」と口にしていたものの、最後は観客動員数の低下を理由に退任。人気も両極端の個性派監督だった。


DeNA・権藤博[1998-2000]


219勝186敗2分、勝率.541優勝1回/日本一1回


「監督と呼ぶな!」「ミーティングなし!」


 指揮を執ったのはわずか3シーズンのみだが、権藤博監督の勝率.541は、球団史上トップにつける(そもそも5割以上が数えるほどしかいない。名将・三原脩ですら8シーズンで勝率.485……)。

 リーグ制覇&日本一に導いた1998年をはじめ、すべてのシーズンでAクラス入りさせた手腕が光る。戦力的には前年の大矢明彦監督時に2位につけるなど土台はできあがっていた。そこに、一軍バッテリーチーフコーチから内部昇格する形で監督に就任すると、独自のアプローチでベイスターズを就任1年目から日本一へと導いた。

 選手には自身のことを「監督」ではなく「権藤さん」と呼ばせ、バントなし、中継ぎ投手にローテーションを採用するなどユニークかつ、合理的な采配が注目を集めた。選手をプロとして尊重し、全体ミーティングを行わないなど自主性を重んじ、その気にさせるのもうまかった。「殺(や)るか、殺られるかだ。やられたら、やり返せ!」と指揮官に鼓舞された若いチームは無限のエネルギーを発揮。現在でも語り継がれる「マシンガン打線」「ハマの大魔神」は権藤監督の下、一世を風靡(ふうび)した。

PICK UP わがチームの個性派指揮官・三原脩


[1960-67]


流行語にもなった三原マジック

 日本シリーズ3連覇中の西鉄から招へいされ、1960年に監督に就任。ワンポイントリリーフや守備固めなど、それまでの常識にとらわれない采配で、6年連続で最下位だった大洋を球団初優勝、日本一へと導いた。大毎相手の日本シリーズはすべて1点差で4連勝。その采配は“三原マジック”と称され、流行語にもなった。同シリーズ前には、大毎・西本幸雄監督との対談や共同会見を意図的に遅刻、欠席して揺さぶった。マジシャンは策士でもあった。

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