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史上最強の監督は誰だ?

球団別最強の指揮官を探せ! 栄光をもたらした男たち【オリックス・ソフトバンク】

 

特集第2章は現存の12球団の歴史の中から編集部で球団史上最強の監督を1人、忘れられぬ個性派指揮官を1人選んで紹介していく。

オリックス・西本幸雄[1963-73]


792勝655敗45分、勝率.547優勝5回/日本一0回


妥協知らずの厳しい指導


 生粋の“監督気質”だった。立大時代は指揮官不在で主将と監督を兼ね、社会人の強豪・別府星野組でも、選手兼任で指揮を執った。毎日に入団し、1955年に現役引退後すると指導の道へ。60年に毎日の監督を経て63年に阪急の監督に就任した。妥協知らずの指揮官の厳しい指導。球団創設以来、優勝経験のなく、負け犬根性が染み付いたナインに基礎からたたき込んだが、これは監督人生でブレることのない信念だった。

「できないことがあれば、できるようになるまで指導するだけ」

 それでも勝てず、ナインから不安が漏れると、「俺についてくるか、○か×を書け。お前たちが決めろ」と66年オフに前代未聞の「監督信任投票」を決行。7人が『×』を投票し、辞任を決めたが、熱意にほれ込んでいた小林米三オーナーが留意。翌年も続投すると、猛練習を課したが、情熱に胸を打たれたナインは付いてきた。

 長池徳二大熊忠義らが育ち、67年に悲願の球団初優勝、さらにリーグ3連覇。71年からは山田久志福本豊加藤秀司の“三羽烏”が中心となり、黄金期を築く。情熱あふれる指導で、弱小球団を常勝軍へと育て上げていった。

PICK UP わがチームの個性派指揮官・仰木彬


[1994-2001、05]


チームを変えたマジシャン

 1994年に鈴木一朗の登録名を『イチロー』、佐藤和弘を『パンチ』と命名。相手との相性や選手の状態を見極めた日替わりオーダーは“猫の目打線”と呼ばれ、勝負どころでは救援投手を次々とつぎ込み、過酷な連投も課した。95年の阪神淡路大震災の発生時には「自分たちができることをやろう」と呼びかけ『がんばろうKOBE』を掲げてリーグ制覇。周囲に目を向けさせ、選手の気持ちを乗せる。チームを変えるマジシャンだった。


ソフトバンク・鶴岡一人[1946-68]


1773勝1140敗81分、勝率.609優勝11回/日本一2回


史上最多勝利を誇る“親分”


 人を惹きつけて離さない。天性のリーダーシップで、プロ野球歴代トップの勝ちを積んだ。1939年に南海に入団した鶴岡一人(46〜58年は山本一人)は、ルーキーながらに主将を務めることとなる。卓越した統率力ゆえの抜てき。そして、兵役を経て球界に復帰した鶴岡を待っていたのが、選手兼任監督というポストだった。

 二足のわらじにも過酷さを感じさせないのが、またすごい。就任1年目の46年に機動力を武器としたチームをつくり上げて初優勝。自身も打点王の活躍ぶりで、MVPにも輝いた。指揮官が選手としても先頭に立って結果で示す姿に、チームメートがついてこないわけがない。強い団結力で、その後も優勝を重ねていく。

 だが、日本一への道のりはなかなか遠く、悲願が叶ったのは59年。日本シリーズではエース・杉浦忠が4連投4連勝を果たし、巨人を圧倒しての頂点だった。

 グラウンドの中だけでなく、グラウンド外でも常に選手のことを考え、生活の面倒まで見ていたことも。人情味あふれる男は「親分」と慕われ、選手から絶大な信頼を得ていた。1773勝という記録は、今後も簡単には塗り替えられないだろう。

PICK UP わがチームの個性派指揮官・王貞治


[1995-2008]


「戦うこと」「勝つこと」への洗脳

 就任当時は、Bクラスが当たり前。“世界のホームラン王“といえども、再建プランには頭を悩ませたはずだ。だが、その方法は実にシンプルだった。「何のために野球をやるのか」を選手たちに問い続け、植え付けていった戦うことの意味、勝つことへの執念。意識の変化が実を結び、1999年には福岡移転後初のリーグ優勝、日本一を果たした。“戦う集団“へと変貌を遂げたチームは、今もなお、毎年6割前後の高い勝率を誇り、優勝争いを繰り広げている。

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