背番号44を着け、巨人、ロッテでプレー。ロッテでは監督も務めた山本功児氏が4月23日、肝臓がんのため死去した。まだ、64歳、早過ぎる別れだった。 巨人時代、王に打撃のアドバイスを受ける
福岡県・北九州市の自宅で家族に見守られながら静かに息を引き取った。最愛の息子・
山本武白志は、今年、横浜
DeNAに育成枠で入団。その一軍のユニフォーム姿を見るのが楽しみだったというが、残念ながら間に合わなかった。
2008年ごろから心臓の具合が悪くなり、ペースメーカーをつける話もあったが、「息子の練習を手伝えなくなる」と断った。横浜市から福岡に引っ越したのも、武白志が九州国際大付高(福岡)に進学し、「もう俺はどこで暮らしても同じだから」と息子をバックアップするためだった。14年ごろからはガンで入退院を繰り返していたというが、14年7月の福岡大会では球場で武白志を応援する姿が見られている。しかし、秋から体調を崩し入院。今年3月になって退院し、自宅で闘病生活を続けていた。
スタメンに定着したロッテ時代
1951年12月25日生まれ。兵庫県・三田学園高、法大から本田技研鈴鹿を経て、ドラフト5位で76年巨人に入団。186センチの長身ながら巧みなバットコントロールを誇った左の中距離ヒッターとして頭角を現した。当時の監督は
長嶋茂雄。就任初年度の75年に球団史上初の最下位となり、巻き返しに燃えていたときだ。
ただ、山本の“本職”の一塁にいたのが、世界の
王貞治。山本はその牙城をなかなか崩せず、主に左の代打として起用された。それでも79年には代打打率.395と驚異の数字を残し、6試合だが「四番・ファースト」でスタメン出場も果たしている。巧打だけでなく、その一塁守備も絶品。王が「うらやましいほどうまかった」と一目置くほどだった。
翌80年限りで王が引退し、今度こそと思ったが、同期入団でもある三塁の
中畑清が
原辰徳の入団もあって一塁へコンバートされ、やはりレギュラー定着はできず。結局、本人の希望もあって83年限りでロッテに移籍。地味な印象があった当時のロッテで一躍人気者となり、バレンタインデーに段ボール5箱分1225個のチョコレートが送られてきたという逸話もある。84年、一塁のレギュラーとして初の規定打席にも到達し、打率.301。84、85年と一塁でゴールデン・グラブも手にしている。
ロッテの監督時代はあふれんばかりの情熱を選手に注いだ。曲がったことが大嫌いで“瞬間湯沸かし器”でもあった[左から2人目]
88年限りで現役引退。ロッテでコーチ、二軍監督を歴任し、
サブロー、
福浦和也らを指導。福浦は「恩人です。僕の野球人生の最後まで見届けてほしかったのですが」とコメントを出している。99年には一軍監督昇格、03年まで務め、04年は巨人時代の先輩・掘内恒夫監督(当時)に誘われ、巨人の二軍ヘッド兼打撃コーチ、05年は一軍ヘッドコーチとなっている。