週刊ベースボールONLINE

2020高校野球クローズアップインタビュー

野々村直通(開星高監督)インタビュー 球児へのプレゼント 8年の“充電期間”経て「山陰のピカソ」復帰 「他力本願。こんなに、苦しいことはない」

 

二度とグラウンドには戻らないつもりだった。ところが、自ら作り上げたと言っていい愛着ある野球部は、ピンチに陥っていた。昨年11月から何度も学校から口説かれ、8年ぶりの復帰を決意し、3月1日付で就任した(新型コロナウイルスの影響により、指導初日は同25日)。“あの発言”から、ちょうど10年である。
取材・構成=岡本朋祐 写真=宮原和也

グラウンドのバックネット後方と左翼後方には「めざせ 日本一」の文字がある。本気で頂点を目指さなければ、到達できないと、目標設定を高くする


 島根県松江市内に画家・野々村直通氏が筆を執る「似顔絵&ギャラリー」がある。20〜30分もあれば、まるで写真のような作品が仕上がる。

「私は野球人ではないですから。クラブ活動の顧問。絵を描き、美術に没頭したいとずっと思っていました。今は出来上がった絵を目にした子ども、親御さんが笑顔になっているのを見るのがうれしくて、ね……。お客さんが喜んでくれる仕事に、やりがいを感じていました。私の中で野球はすでに、終わったこと。講演をさせていただいた際にも『元・開星高監督』と紹介されるのが、どうも、違和感がありまして……。教育評論家という肩書でお願いしても、主催者側からしてみれば、やはり『元監督』でないと納得しない。というわけで渋々、受け入れていました。今年12月には69歳。そんなわけで再び、高校野球の現場へ戻るとは、考えもしていませんでした。まさしく、青天の霹靂(へきれき)ですよ」

 野々村監督は指導者を目指していたわけではない。違う夢があった。

「もともとは、看板屋になりたかったんですよ。そのために、広島大(教育学部美術科)に進学したんです。野球は高校まで、と決めていたんですが、グラウンドに行くと監督も不在で楽しそうだな、と。体がうずいてきまして、再びボールを握ったんです。ただ、いざ、やるとなると、のめり込むタイプ。早い段階からリーグ戦の舞台に立つことができ(2年時には首位打者)、4年時(73年)には大学選手権に初出場することができました」

 1974年、美術科の教師として広島の公立校・府中東高に赴任すると、同時に野球部の監督に就任した。

「野球で大学に入学したわけでもありませんし、神宮の土を踏んだとはいえ、国立大学は同志社大との1回戦で初戦敗退(0対11)。正直、監督としては実績、人脈もありませんでした。そこで広島商高・畠山圭司先生(元監督、広島高野連理事長、会長)の下を訪ね、一から勉強をさせてもらいました。一言一句を逃すまいとメモを走らせて……。私のような素人監督でも、優しく受け入れていただき、畠山先生には感謝の言葉しかないです」

 エースで四番・片岡光宏(元広島ほか)を擁した就任6年目の79年春に甲子園初出場へ導く(初戦敗退)と、松江日大高を経て、86年に松江第一高に赴任。88年の野球部創部に合わせて初代監督に就任した。93年夏に春夏を通じて初の甲子園出場。翌年4月に「開星」と校名変更されることが決まっており「最高の宣伝になりました」と、初の全国舞台を踏み締めている。

前身の松江第一高が創部した1988年、初代監督に就任。1993年夏、春夏を通じ甲子園初出場に導いた。胸の文字は野々村監督が書いたデザイン


 5度目の出場となった2007年夏に初勝利を挙げ、09年春には前年秋の明治神宮大会優勝・慶應義塾高(神奈川)を破る金星。同秋は中国大会初優勝。2年生エース・白根尚貴(元DeNAほか)、注目打者・糸原建斗(現阪神)を擁したチームは10年春、2年連続でのセンバツに乗り込んだ。しかし・・・

この続きはプレミアムサービス
登録でご覧になれます。

まずは体験!登録後7日間無料

登録すると、2万本以上のすべての特集・インタビュー・コラムが読み放題となります。

HOT TOPICS

HOT TOPICS

球界の気になる動きを週刊ベースボール編集部がピックアップ。

関連情報

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング