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日米200勝の大投手・黒田をそのコースに乗せた父・一博さん。25歳からの8シーズンのプロ生活が息子の成功への道を用意した。

 

文=大内隆雄


 広島黒田博樹投手は、めでたく日米通算200勝を達成したが、上宮高時代は3番手投手で、ほとんど投げさせてもらえず、野球をやめようかと思ったほど心がメゲたそうな。そんなとき、「東京(の大学)で勝負してみろ」と専大へ送り出してくれたのが、元南海などで活躍した父・一博さんだった。結局、この「勝負」が、今度は黒田をプロへ送り出してくれることになる。専大時代(93〜96年)は、東都の二部でプレーするシーズンが多く、ようやく一部に昇格したのは、4年の春。神宮球場では、この春から学生野球の試合でもスピードガンによる球速表示がされるようになり、黒田は学生最速の150キロをたたき出し一躍、プロ注目の投手となったのだった。

 一博さんの“プロの目”は、息子をプロへと導いてくれたワケだが、一博さん自身、プロ入りまでには、かなりの回り道をしている。佐世保商を卒業したのが戦中で、それから青木産業、八幡製鉄とノンプロでプレー。1リーグ最後の49年に南海に入団した。25歳の年の決断。そこから56年(大映)まで8年プレー。素晴らしい強肩の持ち主の外野手で、4シーズン対戦した元西鉄の豊田泰光氏は、「顔もよかったけど、センターの守備もよかったなあ」とよく言っていた。優勝3度(51、52、53年)。日本シリーズにも3度、17試合に出場している。ここだけは息子のかなわないところで、広島がこのままVのテープを切っても、息子は、ようやく初V。CSがあるから日本シリーズに出られるかどうかは分からない。

 南海は51年からの日本シリーズで巨人に3タテを食らうが、長打力不足を痛感した南海・鶴岡一人監督は、長打力のない一博さんを高橋に放出。ここで一博さんは「何くそ!」とトレードされた54年に自己最多の118安打を放ち意地を見せた。

 写真は最後のシーズンとなった56年の大映の松山キャンプでの1枚。左から2人目が一博さん。右端は松木謙治郎コーチ。当時の監督はあの藤本定義。元阪神監督と元巨人監督。恐ろしく頭でっかちの首脳陣だが、一博さんは、不満はあったろうがこの2人から学ぶところがあったのでは。それは息子の育て方にまでつながっている。
おんりい・いえすたでい

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過去の写真から野球の歴史を振り返る読み物。

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