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第90回記念選抜高校野球大会

宮崎の県立校を率いる濱田登監督(富島高)の情熱指導 部員11人、ゼロから5年で育て上げた甲子園。

 

富島高・濱田監督は宮崎商高OB。2008年、母校を39年ぶりの甲子園に出場させると、今年4月で就任6年目を迎える同校でも春夏通じて初の全国舞台へと導いた/写真=松村真行


 昨秋の九州大会準優勝。強豪私学が顔をそろえる中で、公立高・富島高の快進撃は話題を呼んだ。今回のセンバツ出場は春夏を通じて初の甲子園。宮崎県日向市内の高校が聖地の土を踏むのは、織田淳哉(早大-元巨人)が2年生エースだった1989年夏の日向高以来。全国的にもほぼ無名とも言える県立校が、わずか6年で全国舞台へ名乗りを上げた理由は一つ。濱田登監督の情熱にほかならない。

「一生懸命頑張れば、野球の神様はご褒美をくれる。39年ぶりの宮商の甲子園出場も感慨深かったですが、何もないところから一つひとつ積み上げたという部分では、違った喜びがあります」

 投手だった田野中時代に、指導者を志した。左胸に伝統の書体で「宮商」と刺しゅうされた宮崎商高のユニフォームにあこがれ、同校進学。3年時は主将(二番・中堅)も、3年夏は県大会準々決勝で敗退した。「母校に戻って監督をしたい」と、九州国際大では3年時から学生コーチを担い、指導者としての基本を学んでいる。

 大学4年時の教育実習で「これからは、英語と、コンピューターができないとダメ」と、指導教諭からアドバイスを受けた。採用試験は受けたものの、目指していた商業科教諭としてのスキルを高めるためにも、卒業後は地元の電算関連の企業に就職した。4年間、働きながら採用試験の準備も着々と進め、難関を突破した。

 1994年からの都農高が初任で9年間勤務しコーチ、部長、監督を歴任後、03年に宮崎商高へ転勤し、副部長を経て04年に監督就任。08年に左腕エース・赤川克紀(元ヤクルト)を擁して・・・

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