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岡江昇三郎

メジャー挑戦ゼロの今年、これはやっぱり寂しい。80年前にアメリカに無謀にも乗り込んだ巨人の勇気を思い出そう!

 

沢村栄治[右]の“アメリカ大冒険”は貴重な体験だった。左は引率役の鈴木惣太郎


 今年はプロ野球からメジャーに挑戦する日本人選手がいないので、ちょっと、いや、大いに寂しい思いをしている。アメリカまで見に行く元気はとてもないのだが、それでも、NHKのBSであれだけメジャー中継をやってくれるのだから、やはり、毎年1人は“新顔”を見たいものである。

 野茂英雄投手の挑戦から20年、メジャーへの道は、ずいぶん平坦になったような感じがするのだが、今年の挑戦ゼロは、「やっぱりメジャーへの道は限りなく険しいのだ」というのを実感させた。

 日本人選手のアメリカ挑戦は、1905年(明治38年)の早大野球部の渡米遠征をもって嚆矢(こうし)とするのだが、以後、東京六大学の各校が続々渡米。28年(昭和3年)、慶大が渡米したときは、エースの宮武三郎が、ニューヨーク・ジャイアンツの本拠地、ポロ・グラウンドでメジャーの投手からスクリューボールの投げ方を教わっている。日本のスクリューボールの歴史も長いのである。

 35年(昭和10年)になると、大日本東京野球倶楽部(のちの巨人)がアメリカ遠征を敢行。これはまさに敢行で、よくぞやったものだと思う。3月2日から7月7日までの間に実に109試合!

 この間、ハワイへの移動の1週間が挟まっているから、ほぼ毎日、試合に明け暮れていたことになる。移動費用は“現地調達”で、その試合のあがりをザーッとかき集めて次のところへ、となる。だから、入場者が少ないと選手はガッカリして試合で力を出せなかったという。「週ベ」3月2日号の「おんりい・いえすたでい」に、この遠征に参加した内堀保さん(捕手)のことが載っていたが、いま書いたことは、以前筆者が東京・碑文谷の内堀さん宅で聞いた話である。

 内堀さんの話で一番驚いたのは、総監督の市岡忠男と主将の二出川延明が、米本土での強行スケジュールにネを上げて・・・

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岡江昇三郎のWEEKLY COLUMN

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プロ野球観戦歴44年のベースボールライター・岡江昇三郎の連載コラム。

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