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惜別球人2013

前田智徳インタビュー 「闘い」との別れ

 


カープひと筋でバットを振り続けたサムライが、2013年シーズン限りでついにユニフォームを脱いだ。度重なる大ケガを乗り越え、不屈の魂で積み重ねた2119本の安打。前田智徳は24年間闘い続けた日々に別れを告げ、新たな道を歩き出す。

文=新ヶ江周二郎 写真=松村真行、BBM

何もしなくていいのが、
うれしくもあり、さみしい


 2013年10月3日の引退試合(対阪神、マツダ広島)から2カ月。年の瀬も近づいてきた12月のある日、前田智徳は引退後の日々について語った。

「もう何もしなくていいのがうれしいような、さみしいような……。そんな感じですね。これまでなら『オフ』といっても、次のシーズンへ向けての準備をしていたわけで。『完全なオフ』は初めてですから。何をすればいいのか分かりません」

 そう笑いながら、前田は両手でゆっくりと自らのふくらはぎをヒザから足首にかけてゆっくりともみほぐしていった。

「何もしなくてもいい」と分かっていても、体が勝手に動いてしまうのだろう。それが24年間、プロ野球選手として積み重ねてきた“年輪”の深さを感じさせた。

「ずっと、闘い続けてきました。ケガをしてからは相手が変わりましたけどね。それはもうつらかったですが、自分にはそれしかできませんでしたから」

 闘いの日々へ別れを告げた42歳の表情は、数々の輝かしい成績を残した充実感というよりも、安堵感の方が強かった。

「これでもう闘わなくていい」。そんな言葉が口を突くほど、前田はつらく険しい道のりを歩んできたのだ。

 86年に山本浩二、翌87年に衣笠祥雄がユニフォームを脱ぎ、黄金時代からの転換期を迎えていた80年代後半のカープ。若返りが求められていた野手陣に現れた新星が、90年ドラフト4位で熊本工高から入団した前田だった。

 新人年の2月、ロッテとのオープン戦に出場すると、5打数5安打(4二塁打)と首脳陣の度肝を抜く打撃を披露。6月に一軍へ昇格し、6日のヤクルト戦(広島市民)に「六番・中堅」でプロ初出場を果たし、ヤクルト・西村龍次からプロ初打席初安打初打点(二塁打)をマークした。

 チームを率いていた山本は、当時のことをこう振り返る。「まず、ユニフォームの着こなしが違った。新人はたいてい“着られる”ものだが、前田はキマっていた。バッティングも素晴らしく、足も速い。これはすごい選手が入ってきたなと思いましたね」

 翌91年、「一番・中堅」で出場した4月6日の開幕戦・ヤクルト戦(広島市民)でプロ初本塁打となる先頭打者本塁打を放つと、シーズン中盤からレギュラーの座を確保。129試合に出場し、打率・271、14盗塁の成績でリーグ優勝に貢献し、自身は外野手として史上最年少でゴールデングラブ賞を獲得した。

▲1992年9月13日、巨人戦(東京ドーム)で決勝2ランを放ったが、5回の守備時に打球を後逸していた悔しさから涙を流しながらベースを回った



「あのときはまさか最後になるとは思いませんでしたけどね(苦笑)。ポン、ポンと日本シリーズに続けて出るものだと思っていましたが……」

 攻守走3拍子そろった外野手として、天才的なバットコントロールが注目を集め始めたが、前田自身が目指す打撃の理想像は別にあった。

「僕はとにかく、ホームランを打ちたかったんです。福本さん(豊、元阪急)、若松さん(勉、元ヤクルト)のように、小さな体でもホームランが打てることを証明したかった。打率にこだわれば、もっとタイトルも取れていたかもしれません。でも僕は、そこへ挑戦し続けたかった」

 小さな体で大記録を樹立した左打者の先輩を目標に、ひたすら研鑚を重ねた。しかし、前田を襲った大きなケガがその後の野球人生を大きく変えることになる。



「ホームラン」から
「全試合出場」へ


 94年からは背番号1を背負い、チームの主軸としてリーグ5位タイの20本塁打をマークした。追い求めたホームランの数も徐々に増加しつつあった95年、23歳の前田を悪夢が襲う。



 5月23日のヤクルト戦(神宮)、一塁への走塁時に右足アキレス腱を断裂。すぐに神宮球場そばの慶應病院で手術を行ったが、この日から前田は「ケガ」という大きな相手と闘うことを強いられていく。

「(右足アキレス腱断裂は)突発的なケガではなく、少なからず痛みはあったんです。最初はこれから自分が何を目指せばいいのかも分かりませんでした。あの日を境に自分が目指すものは大きく変わりましたね」

 プロ入りから5年が経ち、高校生からプロ野球選手の体へと変貌を遂げていた。「レフト方向にも大きいのが打てるようになってきたので、手応えはありました」。そんな矢先の大ケガに、心は荒んでいった。

「それはもう、まだまだ精神的にも未熟でしたから、いろいろとご迷惑もおかけしました」。ただ、自分に何ができるのかを問いかけたとき、やはりそれは野球しかなかった。不屈の闘志でリハビリに励み、翌96年の開幕戦でスタメン復帰を果たす。

 グラウンドへ帰ってきた前田が目指すもの、それは「全試合出場」だった。「出られる試合にはすべて出たい。ただ、そのためにはそれ相応の準備をしなければいけない。『オフ』が『オフ』でなくなったのは、このころぐらいからだと思います」

 新たな目標を掲げたものの、度重なるケガでその目標に達成することはできない。そんな中、01年には左足アキレス腱へメスを入れる。だが、この決断が再び前田の心の中の炎を熱く燃えあがらせていく。

 02年4月5日、中日戦(広島市民)の6回裏二死三塁から山本昌の初球をとらえると、打球は右中間スタンドへ。美しい弧を描いた自身2年ぶりの一発は、復活への口火だった。同年は123試合に出場し、打率・308、20本塁打、59打点。オフにはカムバック賞を受賞し、珍しくほほを緩ませた。

 そして、右足アキレス腱断裂から10年が経った05年。前田は「五番・レフト」としてシーズン全試合へ出場し、打率・319、自己最多の32本塁打、87打点の成績をたたき出した。悲願だった「全試合出場」。さらに07年9月1日の中日戦(広島市民)では、史上36人目となる2000安打を達成。詰め掛けた大観衆の前で、「こんな選手を応援してくださってありがとうございます……。チームの戦いは悔しいことばっかりで……。責任を感じています……」と、人目もはばからず涙した。

 度重なる大ケガからの復活と大記録到達。不屈の魂で野球へ打ち込むそのひたむきな姿が、多くのファンの心を打った

▲2007年9月1日、中日戦(広島市民)で右前適時打を放ち、史上36人目の通算2000安打を達成した



最終打席で見せた
魂のフルスイング


 慣れ親しんだ旧広島市民球場は08年シーズンをもってその歴史に幕を閉じ、09年には新球場のマツダスタジアム広島が開場した。時を同じくして、前田に与えられた役割は「代打」だった。「先発してフル出場だろうが、代打で出場だろうが、準備するということは同じです。ひと振りひと振りに魂を込めてやってきました」

 前田の「準備」を語るひとつのエピソードがある。シーズン中、あまりバットを折ることがない前田だが、キャンプ中はとにかくバットを折る回数が多かった。不思議に思ったバットメーカーの担当者がそれを尋ねると、「バットが折れないヤツはそれぐらいのスイングしかしとらんのじゃ!」と一喝されたという。

 チーム本隊を離れ、1人屋内練習場で行ってきた打撃練習。ピッチングマシンの球速は150キロ超に設定され、黙々と全力でスイングを重ねる。

「キャンプでは振る力をつけないといけない。シーズン中にはできないから、キャンプで振るんです」。代打での「ひと振り」のための、長く厳しい準備の始まりだったのだ。一方で、年齢を重ねることで体に綻びが生じることも避けられない。そのため、現役晩年は準備に費やす時間も増していった。

「時間、足りませんでしたね。あれもやらないといけない、これもやらないといけない。そうしていると、もうあっという間。もっと1日が長ければ良かったんですけど」

 そして、13年4月23日のヤクルト戦(神宮)で、左手首に死球を受け骨折。ただでさえ足りなかった時間が、ついにどうしようもないところまで来てしまった瞬間だった。「最後も自分らしくケガで終わって……。また戻ろうと思ってリハビリをしてきましたが、今回は無理でした。応援してくれたファンの方々に申し訳ないです」

 引退会見ではファンに向けて、感謝と謝罪を何度も繰り返した。

 カープにとって歴史的な1日となった、10月3日の引退試合。試合前、前田は報道陣を前にラストゲームへ向けての思いを語っていた。「最後はね、空振りでもいいから、とにかくバットを振って、サヨナラしたいです」

▲10月3日に行われた引退セレモニーのラストは、ナインからの胴上げ。“固辞”していたが、2度宙を舞った



▲2013年10月3日に行われた阪神との引退試合(マツダ広島)、8回二死から代打で出場し、中日・小熊の初球を見送ると、2球目の直球をフルスイング(写真)。ツーナッシングから3球目もフルスイングし、現役最終打席は投ゴロに終わった





 8回二死走者なしで巡ってきたプロ通算7785打席目。中日・小熊の初球を見逃すと、2球目はこん身のフルスイングで空振り。3球目をたたき、現役最終打席は投ゴロに終わったが、「2球目のフルスイング」にこそ、前田智徳の矜持が込められていたような気がした。自身の言葉どおり、長かった闘いの日々へ、魂のひと振りで別れを告げたのだ。

▲2013年10月17日のクライマックスシリーズ・ファイナルステージで解説者デビュー。「言葉で表現するのは相当難しい」(前田)



前田智徳忘れじのワンシーン
2013.4.21@マツダ広島 対巨人

2119本目のヒット



2013年9月27日の引退会見で印象に残っている打席を聞かれると「いろいろなことがあり過ぎて難しい」と前置きしたうえで「……プロ入り初ヒット(90年6月6日、対ヤクルト/広島市民)と、最後の巨人戦(4月21日、マツダ広島)ですかね。最初と最後です」と答えた。最後の安打は7回二死二、三塁から代打で登場し、巨人・マシソンから中前へ2点適時打。「あとはチームが勝ってくれれば」という同点打で、チームのサヨナラ勝ちを呼び込んだ。

PROFILE
まえだ・とものり●1971年6月14日生まれ。熊本県出身。熊本工高から90年ドラフト4位で広島入団。攻走守3拍子そろった外野手として91年からレギュラーを獲得し、リーグ優勝に貢献。95年に右足アキレス腱を断裂も、翌96年に復帰し打率.313をマーク。01年には左足アキレス腱を手術したが、翌02年に20本塁打、打率.308の活躍でカムバック賞を獲得した。ゴールデングラブ、ベストナインをそれぞれ4度獲得し、07年には通算2000安打を達成。13年限りで現役を引退し、14年からは野球評論家として活動する。

PRESENT

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締め切りは1月13日です。当選者の発表は賞品の発送をもって代えさせていただきます。※ご応募いただいた個人情報は、当選者への発送、確認事項の連絡、小社の企画の参考とさせていただく以外の目的には使用いたしません。
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惜しまれながらユニフォームを脱いだ選手へのインタビュー。入団から引退までの軌跡をたどる。

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