広島県三次市に生まれ育ち、東京での4年間の大学生活を経て、故郷のプロ野球チームに入団した。若くして守護神の役割を任され、重ねたセーブは球団最多の165個を数える。その後は故障もあり、もどかしいシーズンが続いた。それでも、懸命に投げ抜いた17年間だった。 取材・構成=藤本泰祐 写真=宮原和也(インタビュー)、BBM 17年間で一番の緊張
引退登板は、9月23日の中日戦(マツダ広島)。先発で打者1人と相対したが、チームがクライマックスシリーズ出場を激しく争うさなかでの登板となった。 ――引退から少し時間がたちましたが、引退した実感はありますか。
永川 体を動かすことを仕事として17年やってきて、今やっと体を気にせず日々を過ごせるというので、ちょっとゆっくりできています。若い選手の投球練習を見ていると「またやりたいな」という気持ちも少しわきながら(笑)、人のピッチングを横でずっとながめることもなかったんで、新しい経験だなと思いながらやっています。
――引退登板は、クライマックスシリーズを争う中での登板になりました。
永川 前日に、当時の佐々岡(
佐々岡真司)投手コーチから電話がありまして、「明日、先発でバッター1人行くから」って。ビックリして、そこから緊張してきましたね。「これはちょっと、確実に抑えないといけないな」と。変な話、17年間で一番といっていいくらい緊張しました。ストレート2球で1ボール1ストライクになって、もう1球ストレートで見逃すかファウルになってくれたら1球フォークを投げよう、と思っていたんですけど(結果は3球目を一ゴロ)。まあでもいい終わり方だったなとは思います。(体で止めに行った)松山(
松山竜平)君も今年(2019年)一番のプレーをしてくれて(笑)。投げ終えたときはホッとしました。そのあと、今までにはないぐらい長い時間、ベンチで応援することもできたし。なかなか1回で仕事が終わっていることはないので。
――セレモニーでのあいさつは緊張しましたか。
永川 3万人以上いる前で、投げることはあってもしゃべることはなかなかないので、緊張はしましたね。何を言うか考えずに行ったので。考えて覚えていくと、僕も下手くそなので、棒読みになるのもどうかな、と思って。その場で思ったことを言いました。ものすごく短くなってしまいましたけど、それはそれでよかったかなと思います。
――引退はいつ決められたのですか。
永川 今年の夏前ぐらいまでは、ホントにもう一度、一軍の舞台で大活躍するという頭でやっていたんですけど、トレーニングの中で、強めのトレーニングをすると体が悲鳴を上げたりということが多々ありまして。それと・・・
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