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惜別球人2022

阪神・糸井嘉男 引退惜別インタビュー 奥深い野球人生「すんなりいかなかった19年。すぐに活躍できた人間ではなかったけど、そのほうがよかった」

 

惜しまれつつも今季限りでユニフォームを脱ぐ選手へのインタビュー『惜別球人』がスタート。第1回は、超人と言われた男だ。投手として入団し、3年目に野手に転向。日本を代表する5ツールプレーヤーに成長した。ケガにも打ち勝ちながら、愛嬌のある笑顔と、独特の表現力で多くのファンを魅了した、その波乱万丈の19年間を振り返った。
取材・構成=椎屋博幸 写真=石井愛子、BBM

小さいときからあこがれの縦縞のユニフォームを着られた喜びをかみ締め19年間の野球人生を終えた


ペットの正しい飼い方?


 筋骨隆々の体で、多くの野球選手たちがそのプレースタイルにあこがれた。打撃では豪快なアーチをかけ、塁上を快足を生かし走り回り、守備では確実性と強肩を持ち合わせた。そんな糸井嘉男は一度、投手として失格の烙印を押された。そこからはい上がり、一流に登り詰めた。

――小学生のときに父親と一緒に甲子園に来場し、真弓明信さんの本塁打を見てから30年以上。その場所で野球人生の区切りをつけることになりました。

糸井 昔からタイガースが大好きでした。実際にアマチュアのときもタイガースでプレーしたいなと思っていたので……そんなチームで現役を終われるというのは幸せですよね。

――大学4年生のときにも甲子園で阪神の試合を観戦したとか。

糸井 観に行きましたね。タイガースが優勝した年(2003年)です。そのときは日本ハムに入団が決まっていたんですけどね(笑)。

――その日本ハムでは、投手として一流になろうと当然思っていたわけですよね。

糸井 もちろん(笑)、2ケタ勝利はしたいと、その気持ちで入りましたし、ずっと思っていましたが、願いはかないませんでした。今思えば、自由獲得枠というプレッシャーはなくて、プロとしての気持ちがなかったと思いますね。そのあとに野手転向を言い渡されてから、このプロ野球界の本当の厳しさを知りました。約2年で投手を失格になりましたから。そのときから気持ちを入れ替えて、死に物狂いでバットを振りましたね。

――2006年4月に当時の高田(高田繁)GMに笑顔で「ピッチャーとしてはダメだよ」と言われたとか。

糸井 昨日のように覚えていますよ、ハハハハ、ハイ。「糸井君、使えないよ、ハハハハ」という感じでしたよ(笑)。悔しさと同時にこのままだとプロ野球選手じゃなくなるな、と本気でこのときに思いました。

――3年目の4月ですから、やはり危機感が襲ってきたんですね。

糸井 このままやったらヤバイ、と。高田さんは笑って言われましたけど、本気で僕のことを思って言ってくれているのが分かりましたし、野手という活路を見いだしてくれたのも高田さんですから。高田さんの中に「糸井=野手」という選択肢がなかったら、今の僕はないですから。野球人生は本当にそこで終わっていたかもしれません。

――その後は、当時二軍コーチの大村(大村巌)さんと二人三脚でバットを振り込んだと。

糸井 巌さんですね! もうゼロから打撃のいろはをたたき込んでもらいましたね。バットを振ることはもちろんですが、守り、走塁と野手はいろいろとやるので、そのすべてをたたき込んでもらいました。

――本当にゼロから始まったのですね。

糸井 いや、本当ですよ。すべてのことにとことん付き合ってもらいました。大村さんは日が暮れて、夜間練習でも付きっ切りで見てもらいました。あの日々が、僕の土台になっています。僕はあまり大村さんの言うことを聞かへんかったらしいですが(笑)。

――反抗もしていたのですか。

糸井 反抗というか……大村さんは書店に行って・・・

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惜別球人

惜別球人

惜しまれながらユニフォームを脱いだ選手へのインタビュー。入団から引退までの軌跡をたどる。

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