週刊ベースボールONLINE

惜別球人2023

銀次(元楽天) 引退惜別インタビュー 一途な思い「星野さんがいなかったら今の自分はここにいない」

 

また1人、ヒーローがグラウンドから去る。東北の街に夢と感動を与えたヒーローが。悲しい。寂しい。だが、これでお別れではない。これからは選手としてではなく、姿を変えて、大切なファンへ恩返しをしていく決意だ。
取材・構成=阿部ちはる 写真=矢野寿明、BBM


ファンを笑顔にしたい


 銀次のプロ野球人生はいつもファンとともにあった。岩手県出身の生え抜き選手。東日本大震災以降は被災者に寄り添い、笑顔を届け続けた。ファンの思いを受け止め、楽天のユニフォームで現役を終えることを決断。引退後はアンバサダーとして東北の野球振興や社会貢献に携わる予定だ。ファンを愛し、ファンに愛された男の18年間は、努力の日々だった。がむしゃらに、ひたむきに野球と向き合ってきた背番号33。その姿はファンの目に焼き付いて消えることはないだろう。

――11月22日に引退会見をされましたが、決断したのはいつごろだったのでしょうか。

銀次 発表する3、4日くらい前ですね。最初(構想外を伝えられた直後)はまだ現役でできる自信はあったので、現役を続けたいと模索していました。ですが、いろんな方と話をしていく中で、ここに残るべきだということはすごく言われましたし、なによりファンの皆さんを置いてはいけないという思いがあったので、球団に残って恩返ししていこうという思いが強くなりました。

――会見のときには心に火がともっている状態だと話していましたが、それでもファンの思いに応えたいという気持ちのほうが強かった、と。

銀次 強かったですね。そしてこの球団をもっと良くしていきたい、強くしていきたいという思いもあったので、それが恩返しかどうかは分からないですけど、アンバサダーという仕事はやるべきだと思いました。

――プロ野球生活を振り返っていただきます。まず、球団創設1年目の2005年秋に高校生ドラフト3巡目で楽天から指名を受けました。当時はどのような気持ちだったのでしょうか。

銀次 プロに行けるならどこのチームでも行きたいと思ってはいましたが、楽天は新しい球団というイメージがありましたし、当時の僕からしたら仙台はすごい大都会(笑)。本当にうれしかったです。この東北でまだ野球ができるということも本当にうれしかったですね。

――入団後はなかなか一軍に届かない日々が続き、09年に内野手にコンバートされました。やはり生き残りをかけての決断だったのでしょうか。

銀次 そうですね。キャッチャーも大好きだったんですけど、やっぱりいいほうを伸ばしたいというところで、バッティングを見せたいという思いが強くなり、自分で言いに行きました。

――その決断が功を奏し、出場機会も増えていくことに。そして11年の春季キャンプでは星野仙一監督(当時)の下で猛練習の日々でした。

銀次 特守特打は毎日やってましたね。技術では絶対に先輩にはかなわないと思っていたので、あのときはまずは何かを残さなきゃいけない、目につかなきゃダメだなという思いでした。「あいつなんだ?」と思わせたら、そこから何かあるんじゃないかなと。

――そのがむしゃらに頑張った春季キャンプの直後、3月11日に東日本大震災が発生します。

銀次 そこからは本当に変わりましたね。まず気持ちが変わりました。東北出身でもあるし、自分が何とかしたいという気持ちがすごく強くなりましたね。そのためにもまず、誰よりも練習しようと。先はどうなるか分からないけど、野球ができる環境にも感謝しながら毎日コツコツと練習していこうという思いが強くなりました。

――ただ、11年の一軍出場は22試合にとどまりました。活躍したい思いが強くなる中、なかなか結果が出せず苦しい時間も多かったと思います。その時期に自分を奮い立たせていたものは何だったのでしょうか。

銀次 震災後に被災地を訪問しに行ったのですが・・・

この続きはプレミアムサービス
登録でご覧になれます。

まずは体験!登録後7日間無料

登録すると、2万本以上のすべての特集・インタビュー・コラムが読み放題となります。

惜別球人

惜別球人

惜しまれながらユニフォームを脱いだ選手へのインタビュー。入団から引退までの軌跡をたどる。

関連情報

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング