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「対決」で振り返るプロ野球80年史

第5回 西宮球場 vs 後楽園球場

 

プロ野球2年目に、2つの本格的スタジアムが完成。メジャー並みの西宮と小ぶりで地味な後楽園


 前回で書き落としたことから始めたい。スタルヒンが連続MVPとなった1940年は、いわゆる皇紀2600年に当たる。プロ野球もこれに協賛(?)するような形で、初の国外開催、満州シリーズを挙行した。ペナントレースを便宜上3つに分けたことは前号で触れたが、この年は夏季を満州シリーズに当てた。このシリーズの引率役の1人だったのが読売新聞の吉田要記者。元法大投手で、戦後はシベリア抑留を経て「赤旗」でプロ野球原稿を書いていた異色の経歴を持つ人だが、その吉田が「日本のプロ野球は早々と専用のいい球場を作ったのがよかったなあ。国の外に出てみるとそれがよく分かる」と言っていた。

 まあ、満州や旧関東州に立派な球場がある方が不思議なのだが、日本の真新しい2つのプロ専用球場の記者席に毎日座っている吉田は、そんな感想を持ったのだろう。今回は、その2つの新球場、西宮球場と後楽園球場について書く。

小林一三の鶴の一声で2階建て屋根付きスタジアム!


西宮球場正面の偉容。宝塚大劇場とともに小林の力ワザが生んだ傑作


 プロ野球は、スタートの36年中に東京セネタースが上井草球場、大東京が洲崎球場を完成させたが、現在、われわれがイメージするプロ野球の球場からはほど遠いものだった。交通の便も良いとは言えず、洲崎などは、大潮の満潮時になると外野が水びたしになるというお粗末さだった。

 しかし、翌37年になると、関西(西宮市)と東京に相次いでビッグなスタジアムが完成した。1つは、第1回にも登場した阪急電鉄の総帥・小林一三の鶴の一声で出来上がった西宮球場と、これも第1回登場の押川清、河野安通志らの尽力で開場にこぎつけた後楽園球場である。

 小林はご承知のとおり、宝塚歌劇団の生みの親だが、商工大臣を務めたこともあり、極めて多面的な人物で、しょっちゅう海外出張に出かける国際人でもあった。小林はアメリカ出張中に「プロ野球チームを作れ!」の電報を飛ばして、阪急をスタートさせた。この電報には「すぐ球場を作れ!」の文もあり、1年遅れの37年5月1日、開場にこぎつけた。

 写真でご覧のとおり、実に堂々たるスタジアムで、正面の塔屋は9階建てで、内野スタンドの外観は、5層(スタンドは2階建て)。2階席には鉄傘がかけられた。2階建てスタンドは日本初。着工から5カ月で完成の突貫工事だった。内外野で5万人以上収容という触れ込みだったが、実際には3万5000人ほどで、両翼91メートル、中堅119メートル。カブスのリグレー・フィールドとインディアンスのミュニシパルスタジアムを参考にしたと言われ、とにかく天井が高いのが特徴だった。まさにメジャーサイズ。選手・報道陣用食堂もとにかく天井が高いので、利用するわれわれは、日本の球場ではない感覚を味わったものだ。

 蛇足ながら、日本の球場でビーフカツライスを出したのは恐らく西宮のみ。マルカーノ二塁手が、ライスに盛んに塩をぶっかけてうまそうに食べていたのを思い出す。貴賓室(小林オーナーが利用)は赤じゅうたんが敷かれたゴージャスなもので、のちに海を渡る長谷川滋利投手のインタビューをここでしたことがあったが、筆者も長谷川も何だか落ち着かない気分だったのを覚えている。

 私的な話が多くなったが、とにかくいい球場で、座席もゆったり。完成当時は内野にも芝が張られ、まさに「プロ野球の殿堂」だった。球場初の公式戦は5月5日の2試合で、巨人対イーグルスと阪急対名古屋。記録では観衆2042人。かなり寂しい数字だった。前者は3対0で巨人、後者は18対3で阪急。巨人の勝利投手は沢村栄治で完封勝利。沢村はもう9勝(1敗)。この37年春は彼のベストシーズンで、チーム41勝のうち実に24勝(4敗)をマーク、プロ野球のMVP第1号となった。

両翼わずか78メートル、戦前の本塁打の半数を生んだ


後楽園球場には初めからナイター設備が施されるはずだったという


 この日本一の大投手も、巨人が本拠地球場を持たないため、あちこちの球場で投げさせられてきたのだが、ようやく後楽園球場が完成、9月11日に開場式が行われた。実は後楽園球場建設にも小林一三が絡んでいる。株式会社後楽園スタヂアムは36年11月2日、創立発起人会を開いたが(資本金200万円)、彼は1000株の株主だった(ちなみに、巨人のオーナー、正力松太郎も1000株)。専務取締役の田辺宗英(12月29日選任)は小林の実弟であり、小林兄弟がいなければ、後楽園球場建設は難しかったハズである。最初の発起人会(35年10月2日)のメンバーである押川清、河野安通志はこの時点で役員に名を連ねることができず、やがて、この球場をフランチャイズとするイーグルスの創立に向かうのだが(37年1月18日)、彼らの本領は、経営力ではなく、やはり野球の現場にあったということだろう。

 後楽園球場も2階建てだったが、鉄傘はなし。収容人員も3万人と西宮球場よりやや小ぶり、フィールドサイズは、中堅119メートルは西宮と同じだが、両翼は78メートルと極端に狭かった。

 さて、開場式の9月11日には、プロ野球オールスターが2チームに分かれての紅白戦が行われ、2対1で白軍の勝利。1回に紅軍の水原茂(巨人)が白軍の若林忠志(タイガース)から左越えにホームラン。これが球場第1号本塁打となった。ちなみに戦前のプロ野球の本塁打の約半数は後楽園で生まれている。試合数が多かったこともあるが、やはり両翼の狭さの効果が絶大だったと思われる。

 後楽園でひとつ付け加えておくとすれば、大リーグではすでに常識となっていたナイトゲームを日本でもと、最初の計画の段階では照明設備を施そうとしたことだ。押川、河野らは大リーグの事情に詳しく、正力も35、36年の巨人の渡米遠征でアメリカの球場事情に明るかったからだろう。

 また筆者の個人的な感想に戻るが、後楽園の記者席には一番多く座ったのだが、球場の印象を一言で表せば「地味だなあ」。これだった。西宮に比べると、すべてにスモールで、華やかさもない。70年にジャンボスタンドが完成してもそうだった。

 日中戦争のさなか、ぜいたくな建築は無理だったのだろう。西宮の豪華さは、ひとえに小林の“力ワザ”のおかげだった。もっとも、こちらも戦後は競輪と併用という運命をたどるのだが。

 戦後の両球場についてはまた語る機会があるだろう。

文=大内隆雄

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