育成6位でプロの世界へと飛び込み、あっという間にブルペンの一角を任される存在となった。支えてくれたレジェンドの思いを受け継ぎ、佐渡島の子どもたちへ夢を与えるために。思いを込めて右腕を振り続けていく。 文=北川修斗(スポーツライター) 写真=桜井ひとし、菅原淳、宮原和也 レジェンドの支え
今季、巨人のブルペンに欠かせない存在に急成長した若武者がいる。2年目の菊地大稀。開幕当初はビハインドの展開での起用が多かったものの、5月日の
広島戦(東京ドーム)でプロ初勝利を挙げると、徐々にその投球で信頼を勝ち取り、シーズン終盤には緊迫した場面での登板を任されるまでになった。最速154キロをマークした剛腕は、地元とレジェンドの言葉を胸に、腕を振ってきた。
「自分がプロの世界で活躍することで、地元が活気づくと思う。佐渡の子どもたちに夢を与えたい」 186cm、89kgという恵まれた体の基礎は、新潟・佐渡島で育まれた。
「自然だったり、食べ物だったり、お米もおいしいので、伸び伸び育つことができる環境だと思う」。実家の裏にはトキが出るほど自然豊かな地で18年間、大きく育った。
島での遊びはもっぱら野球だった。
「野球をやっている姿がすごく格好よかった」と父・正博さんが草野球でプレーする姿にあこがれ、野球を始めた。父とのキャッチボールが何よりの楽しみだった少年時代。午後5時ごろに仕事から帰宅する正博さんの車の音が聞こえると、グラブと父のキャッチャーミットを持って外で待機した。
「速攻で始まります。楽しみでしたね。(車の音が)聞こえた瞬間、すぐに準備していました」 小学3年から始めた少年野球チームでは、父は監督。大きな背中に追いつくため努力を重ね、同島出身では初となるプロ野球選手になった。
島出身だったからこその、偉大な右腕との出会いがあった。
ロッテのエースとして活躍し、豪快な「マサカリ投法」で通算215勝を挙げた
村田兆治さん。村田さんのライフワークであった「離島甲子園」が、中学3年のときに佐渡で開催された。佐渡市選抜のメンバーとして出場し、初対面。
「僕の中で、あの出会いは奇跡だったと思う」。
大会、野球教室を通して交流し、説かれたのは「夢をあきらめない」という言葉。
「自分がプロを目指すきっかけになった人。あの言葉があったから今がある」と感謝する。
離島甲子園出身としても、初のプロ野球選手となった菊地。プロ入り後も交流は続いていた。入団直前のイベントで対面し、連絡先を交換。昨年6月7日の
西武戦(ベルーナ)でプロ初黒星を喫した際には、「負けることは悔しいから、しっかり練習をして周りを見返せるようにな」と電話で鼓舞されるなど、気に掛けてもらっていた。精神面だけではない。一升瓶をフォークの握りで持ち上げるなどの豪快な姿を直接見るだけでなく、握り方や腕の使い方など、代名詞であるフォークを伝授されてもいた。
「人生先発完投」をモットーに、引退後も子どもたちに夢や希望を与えてきた村田さん。菊地は
「村田さんの意志を消さないように」と・・・
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