人は生きていく中で、たくさんの人と出会う。その出会いによって、見えてくる新しい自分。「土台」をつくり、「心」を学び、プロ野球選手としての森翔平が今、ここにいる。そしてこれからも、たくさんの出会いが待つ。 文=坂上俊次(中国放送アナウンサー) 写真=佐藤真一、BBM 継続は力なり
1月1日生まれである。「盆と正月」ならぬ「誕生日と正月」が同時にやってくる。この日、森翔平のスマートフォンには大量のお祝いメッセージが届く。新年のあいさつもあれば、誕生日を祝福する言葉もある。
25歳の誕生日も、彼は右手のスマホでメッセージをチェックしていた。すると、ほかとは色合いの異なるコメントが入っていた。
「若いし、どんどんガツガツいけばいい。頑張れ」
チームのエースである
大瀬良大地からだった。入団2年目の彼からすれば、あこがれの人である。
「彼はどちらかと言えばクレバーな感じで勝負していました。それもいいのですが、150キロも投げられるし、若さもあります。せっかく出せる出力を落として森翔平をつくるより、しっかり力や若さを出してほしいと思いました。どんどんいって、失敗しながらでも経験を積み、そこから枝葉を広げてはどうかという思いでした」(大瀬良)
尊敬する先輩からの金言は、2023年の方向性を確認するには十分過ぎる重みがあった。
22年ドラフト2位で社会人野球からプロ野球に飛び込んだ。即戦力の活躍が期待されるも、1年目は一軍登板8試合、1勝のみに終わる。だからこそ、23年への気持ちは並々ならぬものがあった。今シーズン、森は開幕こそ二軍スタートだったが、6月に一軍昇格を果たすと、12試合に登板して4勝をマーク。いつしかスピードガンは154キロをたたき出すまでになっていた。
◎
1998年1月、鳥取県に生まれた。小学校1年生のときに野球を始め、高校は鳥取商高に進んだ。ストレートは140キロ前後、そこにカーブやスライダーを交えるが、突出した存在ではなかった。むしろ、野手を兼任しながら三番打者として打撃面を期待されることも。体重は70kgもなく、細身の好選手というのが周囲の印象。3年夏の県大会も準々決勝で敗退、甲子園出場は叶わなかった。
ただ、森の野球人生はここからだった。人との出会いが彼を進化させていく。そのたびに、細身の左腕はスケールアップを果たしていくのだ。
関大(関西大)に進むと、アドバイザリースタッフに伝説の男がいた。1970年代、スピードガンがまだ普及していなかった時代に剛速球を誇った
山口高志(元・阪急)である。
『継続は力なり』
山口の座右の銘である。
阪神でもコーチを努めたベテラン指導者は、投球の土台を徹底させた。
「体幹のメニューがあって、それをやらないと練習を終えてはいけませんでした。オフの日もやっていました。腹筋、背筋。ウオーターバッグを両手で持って投球動作の反復。そういったことはしっかりやるように指導を受けました」 そこに投球フォームの見直しである。マウンドで立ったときに、軸足が折れるクセを修正。
「真っすぐ立って、上からたたく」イメージを習得した。
140キロ前後の球速は、149キロまで伸びた。当初、関大でも絶対的なエースではなかった。それが、チーム内で故障者が続出したこともあり、森の登板機会は増えていく。大学4年の後半になると、「関大の森がすごい球を投げている」とウワサが広がった。
19年10月28日、関西地区大学野球選手権大会の決勝で関大は天理大と対戦した。広島の
鞘師智也スカウトは、この試合を目撃している。といっても、直前のドラフト会議で指名したばかりの
石原貴規(天理大)へのあいさつが主目的だった。この試合で1失点完投勝利の森に、鞘師スカウトは目を丸くした。
「そりゃ、すごい球を投げていました。ストレートは140キロ中盤・・・
この続きはプレミアムサービス
登録でご覧になれます。
まずは体験!登録後7日間無料
登録すると、2万本以上のすべての特集・インタビュー・コラムが読み放題となります。
登録済みの方はこちらからログイン