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デーブ大久保コラム

デーブ大久保コラム「水戸商高のレギュラーとなりユニフォームをもらって感動しました」

 

私の水戸商高時代のユニフォーム姿? ではなく1999年の後輩たちがセンバツで準優勝したのときの写真です。カッコイイですよね、水戸商高のユニフォーム/写真=BBM


 まだまだ新型コロナウイルスの感染拡大が続いています。小、中の野球部の子どもたちも、なかなかチームで集まっての練習ができていないのではないでしょうか。外出自粛と休校が重なりストレスもあると思います。そんなときはバットスイングをしっかりとやって、自分のスイングを固めていくのもいいかもしれません。

 私が初めてチームに入団したのは小学5年生のとき。当時、茨城県にはリトル・リーグのチームが1つしかなく、母親が探し出してくれました。そのチームは非常に人気がありました。当時の男子はほとんど野球をやっていましたから、当然です。そこで入団テストがあったのです。

 私自身、プロ野球選手にあこがれていたこともあり、小学1年生のときから毎日500本のバットスイングを欠かさなかった。そのかいもあって、合格が出ました。チーム名は「水戸リトルリーグ」です。私の出身は大洗町ですから、水戸市まで通っていました。

 そして入団翌週には、代打でいきなり試合に出場したのです。記憶が正しければセンター前にヒットを打っています。この当時の水戸リトルリーグのユニフォームは、クリーム色に胸のマークがオレンジ色だったと、うっすらと覚えています。

 もちろん、このユニフォームは自費で購入です。初めての野球のユニフォーム。プロ野球選手になりたいという夢がある中で、チームに入り、ユニフォームを着ることができたので、めちゃくちゃうれしかった記憶がありますね。

 そのユニフォームを着て出た試合はダブルヘッダーの1試合目でした。2試合目は、その打撃を見込まれて先発出場し、4打数4安打でしたね。ここからはレギュラーとして出場し続けました。

 中学の話は飛ばします(笑)。高校は野球の名門、水戸商高に入学しました。皆さん、水戸商高のユニフォームと言われて、すぐ思い出せますか? 東京六大学リーグの明大をモチーフにしたユニフォームです。紫のアンダーシャツに襟付きの白地のユニフォーム。帽子も明治の「M」と水戸商高の「M」なので形まで一緒。もうあこがれ以外の何物でもないですよ。

 高校1年生の夏までは上下真っ白の練習用ユニフォームしか着ていなかったので、早く水戸商ユニフォームを着たいと思っていました。1年の秋の大会で「2番」の背番号をもらったときは、うれしくて、うれしくて、一目散に家に帰り、母親に背番号を縫ってもらいました。

 当時、水戸商の試合用ユニフォームは、学校からの支給品でしたから、誰でも買えるわけではなかったのです。当時のズボンはだぼだぼで、ボンタン型。裾をしっかり上げるとカッコ良かったですよ。

 ただ、まだ素材はいいものではなく半ニット、半木綿。汗をかくとべっとりとなり重くなっていました。それでもあこがれの名門ユニフォームを着てプレーできたことは、すごくいい経験になりましたね。

PROFILE
大久保博元/おおくぼ・ひろもと●1967年2月1日生まれ。茨城県出身。水戸商高から85年ドラフト1位で西武に入団。トレードで巨人入りした92年に15本塁打。95年現役引退。野球解説者やタレントを経て、2008年に西武コーチに就任し日本一に貢献。12年からは楽天打撃コーチ、二軍監督を経て15年に一軍監督に就任した。15年限りで辞任し、16年から野球解説者をこなしながら新橋に居酒屋「肉蔵でーぶ」を経営している。
デーブ大久保の「さあ、話しましょう!」

デーブ大久保の「さあ、話しましょう!」

元楽天監督、現解説者の「デーブ」こと大久保博元氏の連載コラム。

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