週刊ベースボールONLINE

追悼・星野仙一

追悼企画01/星野仙一、野球に恋した男

 

 星野仙一さんは、いつも言っていた。「俺はベースボールの取材は断らん」。実際、ほとんど断られたことはない。恥ずかしい話だが、テレビ局などに比べれば、ウチのギャラなど雀の涙……。おそらく、球界にとっての専門誌の重要さを評価してくれていたのだと思う。そういった俯瞰(ふかん)した見方ができる方だった。
 いま編集部では、1月26日発売予定で星野さんの追悼号を制作している。その中で、たくさんの資料を見て、たくさんの方から話を聞いた。それがあまりに膨大なので、これから毎日になるか、数日に1回になるか分からないが、追悼号には入りきらなかった話を当時の『週べ』の記事の再録も交えながら紹介していきたい。
 もちろん、それでもすべてが入るはずもない。星野さん、あらためて感謝します。いままで取材へのご協力、本当にありがとうございました。(以下は敬称略)

明大の新しきエース


週べ登場時にも使われていたガクラン写真


 1947年1月12日、岡山県福田町(現・倉敷市)で生まれた。父親の仙蔵は、まだ星野が母親のお腹にいるうちに他界。少年時代から阪神ファンで「阪神が負けると、悔しまぎれに巨人ファンをどついたことがあった」という。

 高校は倉敷商高へ。当時の岡山には、3人とも1学年下になるが、チームの後輩・松岡弘(のちヤクルト)、岡山東商高に平松政次(のち大洋)、関西高に森安敏明(のち東映)と、その後、プロで活躍するレベルの高い投手がそろっていた。星野も速球派として鳴らしたが、最後の夏は東中国大会決勝で敗れ、一度も甲子園出場はない。

 65年の明大進学は、高校の野球部監督が明大出身だったからだ。「監督にそう言われたら『ハイ』というしかない」と笑顔で振り返る。

 中央球界では、まったく無名の存在だったが、打撃投手などでアピールし、早くも1年春からユニフォームをもらい、順調なスタートを切った。

 1966年5月30日号の『週べ』に、「明大の新しきエース」という星野を紹介するグラビア2ページがあった。大学2年時で、1学年上で、のち巨人に進む高田繁。寮での2ショットも紹介されていた。同年10月4日、秋のリーグ戦の立大戦で達成したノーヒットノーランも、グラビア1ページで扱われ、「母が一番喜んでくれていると思います」とコメントがある。アマ選手としては露出がかなり多い。端正な顔立ちもあって、人気者だったのだろう。

 68年5月13日号では一転、「荒れ狂った明治のエース・星野」の記事があった。4月27日、春のリーグの慶大戦。慶大の打者走者の一塁への危険なスライディングに怒り、止める塁審、明大助監督を振り払って、その選手に突進したという話だ。グラビア、本文2ページずつと破格(?)の扱いだった。あの島岡吉郎監督が正面から抱き着くように必死に止めたというからすさまじい。

 島岡監督については、とてもじゃないが、ここでは書ききれない。

 のちの取材になるが、2005年に出した『東京六大学野球80年史』の中で、星野が島岡監督について語った個所を抜粋する。

「大学時代といえば、島岡吉郎、御大、ということしかないですね。それぐらい大きな存在でした。島岡さんは怖かったけれども、私は親父がいなかったから、親父とダブらせて甘えていた部分がありますね。私は殴られたことがないんですよ。世界の七不思議だと言われます(笑)。要領がよかったんですね。怒られるのは怒られましたよ。でも、殴られた記憶はないんです。

 怒られているときにも愛情を感じる、愛すべき怖い親父でした。今も人と接するとき、選手を叱るとき、褒めるとき……随分、影響を受けていますね」

 明大時代は63試合に投げ、23勝24敗、防御率1.91。優勝は一度もなかった。大きな壁は、当時黄金時代にあった法政大だった。

<次回へ続く>

写真=BBM
週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部が今注目の選手、出来事をお届け

関連情報

みんなのコメント

  • 新着順
  • いいね順

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング