週刊ベースボールONLINE

追悼・星野仙一

追悼企画07/星野仙一、野球に恋した男「巨人のV9を決めた!?」

 

 星野仙一さんは、いつも言っていた。「俺はベースボールの取材は断らん」。実際、ほとんど断られたことはない。恥ずかしい話だが、テレビ局などに比べれば、ウチのギャラなど雀の涙……。おそらく、球界にとっての専門誌の重要さを評価してくれていたのだと思う。そういった俯瞰(ふかん)した見方ができる方だった。
 いま編集部では、1月26日発売予定で星野さんの追悼号を制作している。その中で、たくさんの資料を見て、たくさんの方から話を聞いた。それがあまりに膨大なので、これから毎日になるか、数日に1回になるか分からないが、追悼号には入りきらなかった話を当時の『週べ』の記事の再録も交えながら紹介していきたい。(以下は敬称略)

最終戦に勝利して……


力投する73年の星野


 1972年から監督に昇格した与那嶺要とは、もともと気が合ったという。

「ウォーリーは(選手生活)晩年に巨人から追い出されたということもあって(ドラゴンズ移籍)、巨人に対する反抗心、打倒巨人という意識が強烈で、そういう意味でもぴったり気が合いましたね。アメリカナイズと浪花節がうまく混合したというか、選手の性格をよく見ていました。あまり叱ってはいけない選手、うまく褒めてやらんといかん選手。そういうところをきちんと見ていましたね」

 星野自身も「うまくのっけられたというか、意気に感じて投げた。おだてられたら木にも登るタイプだったからね」と笑うが、指揮官・星野にも大きな影響を与えたことがうかがえる。

 前回触れたとおり、それまでは先発、リリーフ併用だったのが、72年はほぼ抑え専門で9勝8敗、防御率2.00をマーク。手ごたえもあったシーズンだが、契約更改はもめた。

 球団は9勝の成績から100万円アップを提示したのに対し、「セーブポイントの17も考慮してくれ」と星野が主張。セーブ制度がまだなかった時代だ。結果的には「セーブは0.5勝相当と評価する」となり、210万円アップの680万円になった。入団4年目が終わり、通算登板173試合、いまなら「0」が1つ多くて不思議ではない。

 前回20セーブは……と、このシーズンを説明したが、17だった。申し訳ない。完了試合数からそのくらいと思ったのだが、負けている展開、同点でも起用されていたのだろう。

 ヒジの状態が少しマシになったことに加え、この契約更改で先発志向がさらに強くなっていたようで「いまだに新聞記者に、お前、去年何勝したんだ、と言われカチンとくるときもある」と話している。

 44試合に投げた73年は本人の希望もあるのか、ふたたび先発が増えた。15試合(完投7)、リリーフも29試合。フォークボールを習得したことで投球の幅が広がり、16勝11敗の成績を残している。

 この年は巨人がV9を達成したシーズンだが、王者巨人にも衰えが見られ、阪神中日らを交えた大激戦となった。そして、ある意味、巨人V9を決めたのが星野とも言える。理由は2つだ。

 1つは、この年、星野は対巨人に5勝2敗。71年から続く連勝も10とし、“巨人キラー”とも言われた。実は対戦防御率は4.20と決していい数字ではないのだが、それだけ要所を締めた、とも言えるだろう。優勝の巨人と阪神の差はわずか2厘差だけに大きかった。

 もう1つは10月20日、阪神との最終戦(中日球場)だ。星野はこの試合に先発勝利。「調子はよくなかったのに、相手が甘い球を見逃してばかり」と振り返った。表情はさえず、「本当は、中日が優勝できないとしても、巨人のV9をなんとしても阻みたかった。なのに阪神をストップさせちゃった」とも。阪神はこの試合に勝てば優勝だったが、敗れたため、22日、巨人との直接対決にVの行方は持ち越され、阪神は0対9と惨敗した。(初出から一部修正)

<次回へ続く>

写真=BBM
週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部が今注目の選手、出来事をお届け

関連情報

みんなのコメント

  • 新着順
  • いいね順

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング