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追悼・星野仙一

追悼企画19/星野仙一、野球に恋した男「ディフェンス重視のナゴヤドーム野球への変換」

 

 星野仙一さんは、いつも言っていた。「俺はベースボールの取材は断らん」。実際、ほとんど断られたことはない。恥ずかしい話だが、テレビ局などに比べれば、ウチのギャラなど雀の涙……。おそらく、球界にとっての専門誌の重要さを評価してくれていたのだと思う。そういった俯瞰(ふかん)した見方ができる方だった。
 星野さんの追悼号制作の中で、たくさんの資料を見て、たくさんの方から話を聞いた。それがあまりに膨大なので、これから毎日になるか、数日に1回になるか分からないが、追悼号には入りきらなかった話を当時の『週べ』の記事の再録も交えながら紹介していきたい。(以下は敬称略)

アイドリングの1年を終え


神宮で優勝を決め、胴上げされる星野監督


 前回は、1997年のナゴヤドーム初年度、最下位に終わったというところまでだった。

 実は、この年に向け、星野監督は珍しく大きな補強しなかった。その理由について触れた個所を紹介する(中日ドラゴンズ80年史より)。

「ドーム球場に関しては、あまり賛成じゃなかったんですが、楽しみにしている選手もいる。古民家から分不相応な大邸宅へ引っ越しです(笑)。その住み心地を味わってもらいたいので1人もトレードせず、解雇も最小限にしたはずです」

 なお、ドームお披露目の日に、最愛の扶沙子夫人が死去(享年51歳)。同インタビューで「これが人生で一番つらかったなあ」とも語っていた。

 いわばアイドリングの1年を終え、97年オフ、星野監督は再びチーム改革に着手。主砲の大豊泰昭、強打の捕手・矢野輝弘阪神の捕手・関川浩一、内野守備の名手・久慈照嘉の大型トレードを実施した。俊足の関川については外野手起用を最初から考えていたという。さらに韓国球界からは“韓国のイチロー”とも言われた俊足巧打の李鍾範。さらに投手陣も、やはり韓国から左腕のサムソン・リー、ドラフトでは後輩となる明大のエース、川上憲伸を獲得。比較的狭くホームランが出やすかったナゴヤ球場時代の野球を完全に捨て、ディフェンス重視のナゴヤドーム野球への変換を進めた。

 結果にもすぐ出た。98年は防御率3.14と12球団最高。優勝争いにも加わったが、この年はマシンガン打線の横浜に届かず、2位に終わった。

 迎えた99年は、中継ぎに新人・岩瀬仁紀が加わり、落合英二、岩瀬、サムソン・リーから守護神・宣銅烈の勝利の方程式が確立。打ってはガッツマン・関川が攻守でチームを引っ張り、開幕から11連勝。そのまま指揮官としては2度目の頂点に立った。

「1度目の優勝とはまた違った感慨がありました。開幕していきなり11連勝。これで優勝できなかったらどうしようというプレッシャーとの闘いですよ。そして8月、巨人に1ゲーム差、0.5ゲーム差に追い詰められた。そのときのミーティングのことはいまでも覚えている。食堂に全員を集めて、『勝負事はなかなか勝たせてくれんものだが、今年は勝てるようになっているんだ』と言ったんですよ。そしたら巨人に2試合連続のサヨナラ勝ち。それで一気に波に乗った。『言葉は力なり』とつくづく思ったものです」(中日ドラゴンズ70年史)

 選手時代から通じ、4度目の日本シリーズは、現役時代、激闘を繰り広げた王貞治監督率いるダイエーに敗れたが、その強さは、しばらく続くだろうと思われた。

<次回へ続く>

写真=BBM
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