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センバツ現場発

センバツ現場発/恩師とともに全国制覇を誓う下関国際高・大槻部長

 

第90回記念選抜高校野球大会が3月23日、阪神甲子園球場で開幕した。球児による13日間(準々決勝翌日の休養日1日を含む)の熱戦が繰り広げられるが、現場でしか分からない「センバツリポート」をお届けしていく。

悲願の初戦突破はならず


今大会最年少24歳で責任教師を務めた下関国際高・大槻部長(右)。目指すは恩師・坂原監督(中央)との「日本一」である


 甲子園1勝の壁は厚い。下関国際高は昨夏、今春と初陣として大舞台に挑んだが、今春も創成館高との2回戦を1対3で敗れ、悲願の初戦突破はならなかった。

 一塁ベンチで指揮を執る坂原秀尚監督をバックアップしていたのが、教え子にあたる大槻陽平責任教師(部長)だった。

「とにかく、熱い人です」

 中学時代、右投手だった大槻部長は地元の下関商高か下関工高への進学を考えていたという。そんな中、2005年8月から指揮を執る坂原監督が何度もグラウンドに足を運んで大槻部長の練習を視察。そこでの決めゼリフは「弱者が強者に勝つ!!」。熱血漢に心酔し一転、強化を本格化しようとしていた下関国際高に進学先を切り替えた。

 当時の設備は充実しているとは言えなかった。グラウンドは黒土ではなく、照明もホームベース付近に2つあるのみで、日没後の練習は難しかった。大槻部長の同期は16人いたが、1学年上は3人、2学年上は2人と、部員不足の時代。さまざまな困難を坂原監督と乗り越えていったのである。

 エースとして臨んだ3年夏(2011年)は山口県大会4強。甲子園にはあと2勝届かなかったが、努力が実り、のちにつながる一つの基盤を作り上げた代である。

 卒業後は「高校時代は少人数だったので、大学は大所帯の中で切磋琢磨したいと思った」と、4学年で約200人が在籍する日本文理大(大分)に進学。投手育成に定評のある同大学で、同級生には田中豊樹(現日本ハム)ら高いレベルがいる環境の中で成長した。Aチーム(一軍)に入ることはできなかったが、Bチーム(二軍)のオープン戦で登板機会に恵まれた。130キロ後半のストレートにカーブ、フォークらを織り交ぜるタイプだった。

試合で感じたチームの前進


 大学2年の冬に下関国際高を訪ねると、塚原監督から指導者として手伝ってほしいとの打診があった。2014年に1学年上で主将だった嶋大将氏が指導陣に加わると、翌16年には大槻氏も母校へ戻ってきた。学校のバックアップによりグラウンドは黒土になり、照明搭も8基が設置され、夜間練習もできるほど環境は大きく変わっていた。

 17年からは常勤講師(公民科)となり、野球部長に就任。同年夏、春夏を通じて初の甲子園初出場を引率すると、今春も2季連続で全国のステージに立った。

「ありがたいことです。何年やられても行けない方もいる。チームの役に立つために動くようにしています」

 今大会、全国1勝を挙げることはできなかったが、チームの前進を感じた。

「ミスをしても全員で声を掛け合い、プレーに入る前の準備もできていた。前回は何もかもが初めてで、宿舎でもバタバタ、試合中もバタバタ……。経験したことで落ち着いて動けるようになっていた。でも、甲子園で勝つには1つのミスが失点につながる。課題を夏までに埋めていきたい」

 坂原監督、嶋コーチによる3人のスタッフミーティングのたびに確認するのは「日本一を目指していこう!!」ということだ。

「どんな形でもいいので、監督をサポートして、夏またここに戻ってきて、全国制覇を狙っていきたい」

 試合後の取材が始まると、大槻部長は補助員とともに、メンバー18人にミネラルウォーターを配布していた。24歳。部員にとっては兄貴分的な存在であり、これからも母校野球部発展のために汗を流していく

文=岡本朋祐 写真=田中慎一郎

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