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週刊ベースボール60周年記念企画

王貞治、53本塁打の夜/週べ1964年9月21日号

 

 今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。

チャック、スタンカの大乱闘


表紙は巨人長嶋茂雄




 今回は『1964年9月21日号』。定価は50円だ。
 9月6日、川崎球場での大洋─巨人戦で大記録が生まれた。
 1回表二死後、24歳の王貞治鈴木隆から右翼ポールにぶち当たる弾丸ライナーの52号、6回表無死に峰国安から120メートル先にあった右中間の照明塔の根本に当たる53号を放ち、南海・野村克也が前年に作った日本記録52本塁打を更新した。
「1本目はファウルかと思っていました。新記録の2本目は打った瞬間に分かりました。あのコースの球はいつでも打てる球でした。6試合打てず、記者の人やナインに冷やかされましたが。これでホッとしました」
 新記録を打った相手の峰は、王の打席でモーションを一度止めたりと、トリッキーな投法で知られていた。このときも一度モーションを止めたが、王はまだ右足を上げてもらず、仕方ないかとばかり投げ始めた瞬間、足を上げての一打だった。
「うまくやられました」とうなだれる峰に、同僚の近藤和彦が「後世に君の名が残るからいいじゃないか」と慰め(?)ていた。
 なお、もちろん、この日だけのものだが、王に贈られたホームラン賞は2000円とサッポロジャイアンツの大瓶2本だけだったという。

53号を放った王



 今回は大きな出来事が多いので足早にいく。

 9月1日夜、南海から野球留学していた村上雅則がついにメジャー初登板を果たした。
 この年の春、同僚の高橋博捕手、田中達彦内野手とともにサンフランシスコ・ジャイアンツのキャンプに参加。その後、村上のみA級のフレスノ・ジャイアンツに入団し、残り2人はルーキー・リーグ行きが決定した。
 南海からは、6月に帰国命令の手紙と電報が届いたようだが、ジャイアンツのストンハム会長が「本人の成長のため残したほうが」と南海に親書を送り、残留が決まったという。

 11勝7敗、防御率1.78でフレスノ・ジャイアンツの全日程が終わった後、8月28日にメジャーのニューヨーク・ジャイアンツから「すぐ来なさい」と電話があり、8月31日に契約。この日、シェイスタジアムのメッツ戦に登板した。

 9月3日の日生球場ではド派手な乱闘事件があった。
 ことの起こりは南海のスタンカが投げた近鉄チャックへのビーンボールくさい1球。そのときは収まったのだが、チャックが二塁打を打った際、二塁ベース上でスタンカに何やら声をかけると、スタンカが怒り、にらみ合いに。そこからまずチャックが右フックを繰り出すもスタンカがそれをかわし、横抱きにチャックをグラウンドに引き倒した。
 両軍ナイン総出で2人を引き離し、ともに退場となっている。

乱闘事件を伝える記事



 もう1つ、当時の球界には衝撃的な記事があった。巨人がドジャーズのアル・カンパニス氏から指導され、選手に徹底していたダウンスイングの話だ。
 何かと賛否両論があった技術に対し、週べで当のカンパニス氏に聞いてみようとなったのだが、答えが衝撃だった。
「ダウンスイングなどという言葉はない。棒杭は打ててもボールを打てないような技術を教えた覚えはない」
 スイングの最初からバットのヘッドが手より下にならないようにという説明を誤訳したのではないか、という。
「アッパースイングもあながち悪いスイングとは言えない。ただ日本人選手のパワーや技術であればできる限り水平にスイングしたほうがいい」
 とのことだ。

 では、またあした。

<次回に続く>

写真=BBM

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