今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 金田正一の退団声明
今回は『1964年12月14日号』。定価は60円だ。
11月26日、国民的スター、巨人・長嶋茂雄がついに婚約を発表した。
きっかけは同日、報知新聞のスクープだ。すぐさま各社が長嶋家に向かったが、すでに長嶋は雲隠れ。その後、ホテル・ニューオータニに婚約者の西村亜希子さんと一緒にいる、という情報が流れ、今度はホテルに記者が大移動した。
実はプロポーズし、それを受けてもらったのが前日の25日。まだ関係者に連絡をする前に報知にスクープされてしまい、この日は、長嶋も大慌てでホテルにこもって関係者に電話で連絡していたらしい。
すっぱ抜いた報知に怒ったのは各社の長嶋番記者だ。彼らは結束が固く、長嶋にも仕事を越えた友情を感じていた。長嶋は当時日本中の関心事だった婚約について、必ず共同会見で明かすという約束をしていたという。
実際には長嶋と親しい報知の担当記者は「記事にはしない」と長嶋に言っていたが、「これだけ情報はあるなら出してしまえ」とデスクに押し切られたらしい。
記者たちには球団にも猛抗議。結局、ニューオータニで、この日のうちに共同会見となった。
亜希子さんは語学を生かし、東京オリンピックのコンパニオンをしていた才女。長嶋がスポーツ紙の五輪特別記者となるための準備として、
王貞治とともにコンパニオン7、8名との懇親会に出席したときに出会い、長嶋が一目ぼれした。
亜希子さんはプロポーズの言葉を聞かれ、「この言葉はわたしひとりの胸におさめておきたいと思います」と答えた。
今回は話題が豊富だ。
南海から野球留学し、そのままサンフランシスコ・ジャイアンツで日本人初のメジャー・リーガーとなった
村上雅則。南海は、メジャーで力をつけた村上の復帰を首を長くして待っていたが、アメリカの新聞に、村上が翌シーズンも南海に戻らず、SFジャイアンツでプレーすることが確定的という記事が載った。
南海側は村上を“貸した”つもりだったが、SFジャイアンツは“買った”つもりでいて、村上自身もメジャーでのプレーを希望しているという。
また国鉄派、サン
ケイ派でドタバタが続く国鉄スワローズは、退任が決定的と言われていた
林義一監督の留任が決定。二軍監督・
飯田徳治の一軍監督昇格の線で進めていた北原代表は辞任した。
要はサンケイ派の大勝利ということだ。
さらに11月27日にはエース・
金田正一が退団声明。28日には会見を行い、「北原さんがやめ、林監督が留任した国鉄でワシは野球をやる気はない。国鉄は赤字だ。その責任を負って北原さんがやめるというが、それならワシがやめればいい。ワシはやめて林監督を見返してやる。どんなにダメな監督か思い知らせてやる」
60年、十年選手制度で、金田には移籍の自由があった、このときは北原代表の説得もあって行使しなかった。
十年選手について説明すれば、1952年以前にプロ野球に入った選手の既得権で制限付きで移籍の自由が認められるというものだ。
基本的には現在の球団が選手の保有権を持ち、自由契約にならなければ選手は勝手に移籍はできないが、10年選手の金田の場合、国鉄とどうしても契約したくないと言えば「特別保留選手」になる。
こうなると金田はセ・リーグの管轄となり、まずセは金田に国鉄と契約を勧めたうえで、それがイヤとなるとウエーバー形式で他球団に出す。この際、昨年の優勝チーム、
阪神は除外され、金田がそれ以外の球団から選ぶことになる。
このルール、どこまでが厳密にやっていたのかは分からないが、記事どおりなら、巨人がV逸の64年オフの事件だったというのは、面白いめぐり合わせだ。
大洋には
新治伸治が入団。東大からの第1号プロ選手で、実は当初プロ野球に入るつもりはなく、大洋漁業本社に入社し、出向の形での入団だった。
最後に。
ここ数回紹介してきた
広岡達朗の移籍問題は正式に残留で決着。以下は
川上哲治監督のコメントだ。
「球団幹部が決めたことだから、われわれは従うほかないだろう。わたしは大体広岡を出す気持ちはなかった。残ると決まった以上、広岡も我を捨ててやってほしい」
根は深いようだ。
では、また月曜日に。
<次回に続く>
写真=BBM