今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 西垣元監督の金田愛
今回は『1964年12月28日号』。定価は50円だ。
1964年12月12日、大もめが予想された国鉄・
金田正一の契約更改だが、“一発”で蹴りがついた。
交渉の後、金田は今泉球団代表とともに記者会見を開いた。金田はそこで、これまでの球団批判を謝罪。さらに、
「僕は退団を決意しました。15年間も国鉄でやってきた愛着はありますが、僕の決意は固いのです」
と語った。
これに対し今泉代表は、
「国鉄としては、はいさようですかというわけにはいかない。12月15日までは国鉄の選手なのですから最後まで慰留するつもりです」
ただ、わずか3日の交渉期間、会見後、笑顔での2人の握手を見ても金田を無理に慰留する気がないことは明らかだった。
B級10年選手の権利については何度か説明しているので省くが、
林義一監督との確執、さらに国鉄(球団)と資本提携し、あれこれ口出しするサン
ケイグループにイライラしていた金田。ついに来るべきときが来た、という感じか。
金田はさらに語る。
「国鉄とケンカ別れするのではない。どちらかと言えば、僕は身を引いたことになりますかね。国鉄が緊縮財政となった中で、僕の給料は飛び抜けて高い。僕はいては企業として成り立たない。ならば高い給料を出しても企業として成り立つところへ行かなければならんということでしょ。
その場合、やっぱり在京球団になります。僕は東京に家もあるし、家族もあるから、そうじゃなきゃ成り立たない」
完ぺきに巨人を意識した言葉である。
この騒動、金田が巨人入りしたくてゴネたと思っている人も多いかもしれない。確かにそれは間違いとは言えないが、話はもう少し複雑だ。
前述のように当時のチーム内は国鉄派とサンケイ派で分裂しており、サンケイは球団に経営悪化を改善するために緊縮財政、つまりは年俸を下げろと要求していた。
当然、年俸3000万円と言われた金田がターゲットになる。
サンケイに対し苛立っていた金田は、この動きを自身に売られたケンカとばかり吠えまくったが、国鉄派は、金田を必死で守ろうとした。
実際、「球団が5億円の赤字でつぶれるかどうかの瀬戸際に、金田にだけ法外な給料をやるわけにはいかない」と話した今泉代表に対し、
当時球団重役となっていた初代監督、西垣徳雄は、こう訴えたという。
「私は全国の鉄道管理局を行脚して金田のために資金を集めます。私も人間なら職員も人間です。誠心誠意、真心を持ってぶつかれば、きっと分かってくれるでしょう。
どうしても金田を引き留めたい。たとえ林監督と折り合いがうまくいかずとも、私が叱るところは叱り、説得すべきところは説得します」
しかし今泉代表は、
「緊縮プランを作ることは誰にでもできる。だがそれを守ることは難しい。私はいったん決めたものは、最後まで貫くつもりなのだ。それでなくては経営合理化も単に掛け声だけに終わってしまう」
と決然たる態度を変えなかった。
西垣は金田をスカウトした人物で、金田は西垣家に下宿していた時期もある。
では、またあした。
<次回に続く>
写真=BBM