1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。 捕球やポジショニングも一級品
プロ野球の歴史において、多くの遊撃手が“名手”と評され、その名を球史に刻んできた。ただ、華麗さで魅せた遊撃手、堅実さで鳴らした遊撃手など、個性はそれぞれだ。南海には、1リーグ時代から2リーグ分立の黄金時代にかけて、“バカ肩”と言われた強肩の
木塚忠助がいて、“100万ドルの内野陣”の要となった。伝説的な選手でもあり、単純な比較は不可能だが、そんな強肩遊撃手が過去にいた南海にあって、その強肩を歴代屈指と評されたのが定岡智秋。失策も多かったが、
「捕球のエラーじゃないですよ。だいたいは(送球を捕るべき)相手が捕れなかった。特にベースカバーに入った投手と(捕手で兼任監督の)野村(
野村克也)さん(笑)」
肩に自信がある分、一般的な遊撃手よりも2メートルほど後ろで守った。守備範囲も広く、100メートル11秒台の快足を飛ばして、前に転がったボテボテの当たりも問題なし。右中間への打球の中継にも入った。
どうしても強肩ばかりが目立ってしまうが、捕球やポジショニングも一級品だった。三遊間の打球には自信を持ち、逆シングルも得意。現役時代は華麗な遊撃守備を誇り、1982年に西武の監督に就任したのが
広岡達朗だったが、とにかく辛口で知られる広岡をして、「三遊間の打球なら一番うまい」と言わしめた。ポジショニングも現役時代はメジャーでも名二塁手だった
ブレイザー仕込み。
「打者や配球でポジショニングを変え、常に3つくらいの可能性を考えながらプレーした」という頭脳派でもあった。
若手時代から守備には定評があったが、打撃はプロ初安打を3ラン本塁打で飾る鮮烈デビューも、安定感を欠く。思い切りのいいスイングが持ち味で、それが長打力につながったが、なかなか安打の数は増やせなかった。
ドラフト3位で72年に南海へ。鹿児島実高のエースとして甲子園で県勢初のベスト4進出に導いてアイドル的な人気を誇った弟の正二が75年に巨人へ入団したことで注目を集める。まだ実績はなかったが、ファン投票1位で球宴にも出場。見せ場となったのが遠投競争だ。内野手ながら127メートルを投げ、当時は強肩外野手として鳴らしていた
広島の
山本浩二も「素晴らしい。とてもかなわない」と舌を巻いた。
プロ5年目となった翌76年、遊撃の定位置を不動のものにする。78年には二塁に
河埜敬幸が入るようになり、同じく巨人に兄の和正がいる河埜との二遊間は、“兄弟選手の二遊間”として注目を集めた。
打撃開眼の矢先に悪夢が……
一方の打撃は79年に初の2ケタ11本塁打、翌80年には自己最多の13本塁打も、打率は2割台の前半をウロウロ。レギュラーながら初めて規定打席に到達したのが80年で、なかなかシーズン100安打には届かなかった。82年も自己最多に並ぶ13本塁打を放ったが、85安打で打率.216に終わる。
打順が八番、九番が多かったため、コツコツ当てにいくより思い切り振ったほうがいいと思っていたこともあるが、それでも着実に力をつけてきていた。弟の徹久が広島でプロ入りして定岡3兄弟そろい踏みとなった83年、ついに打撃開眼。初の全試合出場で107安打、打率.257と“大台”を突破すると、84年は33試合で7本塁打と、これまでにないハイペースで本塁打を量産する。悪夢が襲ったのは、その矢先だった。
5月10日の西武戦(大阪)でアキレス腱を断裂。そのままシーズンを棒に振り、85年には復帰を遂げたものの、レギュラーに返り咲くことはできず。足への不安を抱えながらも全力プレーを続けたが、その後は86年の出場80試合が最多で、85年オフにトレードを拒否して引退した弟の正二の後を追うかのように、87年限りで現役を引退した。
「やりきった思いもあるけど、あれ(アキレス腱の断裂)がなければダイエーでもできたのにな、と思うときはありますね」
故郷の九州へ移転して生まれ変わったホークスには、指導者として貢献している。
写真=BBM