昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、平日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 屋根付き球場プランが……
今回は『1965年10月11日号』。定価は50円だ。
9月26日、対東映のダブルヘッダー第1試合の勝利で19試合を残し、南海が早々に優勝決定。大阪球場での優勝は1952年以来、13年ぶりとなる。
ただ、大独走もあって大阪球場は、この日がシーズン初の満員だった。
海の向こうでは、その南海から留学した
村上雅則の活躍もあってサンフランシスコ・ジャイアンツがドジャースと優勝争いを演じていた。
これによってメジャーが日本人、特に投手に目をつけ、ジャイアンツ極東担当スカウト、原田恒男が銚子商高の
木樽正明投手と接触したことは前回触れた。
原田はほかに元
巨人、64年限りで解雇となっていた
古賀英彦に目をつけ、アリゾナ州での教育リーグに参加させている。
古賀は近大出身の投手で巨人移籍後。外野手に転向。スイッチヒッターにも挑戦したが、芽が出なかった。ただ、古賀自身によれば、プロ入り後、下手投げ転向で背筋を痛めたことが投手失敗の原因であり、もともとの投げ方に戻せば、投手でできるはず、という。
原田はスカウトを投手に限定している理由を次のように語る。
「パワーの差ですよ。日本の打者は定規で測ったようにうまくバッティングをするが、それだけでは通用しない。あと大リーグでは攻守走三拍子のうち一つかけたらもう落第ですしね。
投手は日本人は小手先が器用ですからコントロールがよく、変化球が多彩。もちろん、先発で大エースになるというのは考えづらいが、アメリカは分業制がはっきりしているので、村上のようにリリーフ専門だったり、その個性を生かす使い方ができる」
さらにまた違った形でのアメリカからの進出のニュースもあった。
7月にアメリカから帰ってきたドリームランド社長・松尾国三が、大阪新歌舞伎座で会見を開き、ショッキングな発表をした。
日米の合弁の形で横浜ドリームランドの隣接地に屋根付き球場を作り、野球だけでなく。あらゆるスポーツを開催する、というものだ。
松尾社長はサン
ケイに対し、本拠地でどうかと交渉したが、断られた。
閑散とする東京の本拠地東京スタジアムの“名物”とも言われたのが、パリスの奥さん、スージー夫人。ほとんど毎日4人の子どもたちを連れて球場に現れ、旦那に声援を送った。
この夫人が最近、8ミリを球場に持ち込み、パリスの打撃フォームを熱心に撮影するようになった。
「主人が最近フォームがおかしいと言って、一度カメラに映して研究したいというものですから」
と夫人。オリオンズの担当記者は、
「アメリカ人を出稼ぎ根性丸出しというが、パリス夫婦ほど、野球のために生活を送っている家庭が日本にあるだろうか」
と感心しきり。なお、一軍はパッとしなかった東京だが、イースタンでは11勝を挙げた若手投手が注目を集めていた。球場近く北千住で生まれた“下町っ子投手”、18歳の
成田文男だ。
「イースタンではまるで打たれるような気がしなかった」
と心臓の強さも感じられるコメントをしていた。
では、また月曜に。
<次回に続く>
写真=BBM