昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 拒否者相次いだ第1回ドラフト会議
今回は『1966年2月14日号』。定価は50円だ。
巨人が水面下で選手補強に動き、それに対し、2人の監督が激怒していた。まず、その言葉を紹介する。
「巨人のところのマスコミを使って米田(哲也)に知恵をつけた。“巨人にくれば希望条件はすべてかなえてやる。契約でごねるだけごねて阪急がお前をもてあますようにしろ”とね。卑怯なやり方だよ」(阪急・
西本幸雄監督)
「うちの広瀬(叔功)にマスコミを使って手を出してきたという話を聞いた。しかし、広瀬をくれ、というのは王(貞治)を巨人さんにくれ、というようなもんだ。もし、うちがマスコミを持っていて王にちょっかいだしたらどないすんねん。おそらく一斉にうちを攻撃するに決まってるわ」(南海・
鶴岡一人監督)
どこまで本当かは分からないが、記事によれば、この年の巨人はドラフト制スタートで浮いた新人補強資金を使い、大型補強を考えていたようだ。
狙っていたのが広瀬、米田、東京の
榎本喜八、東映の
毒島章一、西鉄の
玉造陽二ら。
ただ、実際には成立したトレードは、
伊藤芳明と東映・
久保田治、
船田和英と西鉄・田中久だった。
田中久、広瀬、米田の3人は10年ないし14年のボーナスを支払わなくてはならず、その球団にボーナスを肩代わりするから、と言って獲得に動くつもりだったようだ、
このうち米田のトレードは巨人系新聞の一面でスクープ? されたものだった。記事では、
高橋明を交換要員に進めていたらしいが、新聞でこの話を知った西本監督が「米田を出すなら、俺もやめる」と激怒。ご破算となったらしい。
広瀬に対しては話が以前にもあったが、鶴岡監督が反対し、立ち消えとなった経緯があった。今回、鶴岡監督が退任するとなって再び動き出し、交換要員は柴田勲、
中村稔を用意していたらしい。
さらにドラフトでは広瀬の弟・邦敏を指名し、広瀬家に近づいたが、ご存じのように鶴岡監督が復帰。
川上哲治監督の鶴岡に直接申し込むも、
「アホ抜かせ」
とにべなく断った(邦敏も入団拒否)。
当時は新聞記者を使って選手を口説き、選手から自球団に言わせるパターンもあったようだ。
確かに新人より使える確率は高い。
ちなみに第1回ドラフト会議の“結果”一覧があったが、契約51人、未契約82人。拒否したというより、指名だけし、交渉すらしなかった選手は未契約の3分の2ほどいたという。
悲惨なのは11人指名して2人だけのサン
ケイと、16人して3人だけの西鉄か。
まだまだドラフトのあり方も混とんとしていた。
では、またあした。
<次回に続く>
写真=BBM