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平成助っ人賛歌

イチローとオリックスV2打線を牽引した“筋肉マン”トロイ・ニール/平成助っ人賛歌【プロ野球死亡遊戯】

 

準備する期間もないまま日本へ


オリックス在籍計6年間で136本塁打を放ったニール


 これからのテレビはインターネットつき。

 平成9年春、所さんは恐ろしく巨大なリモコンを両手に持ち、分厚いブラウン管テレビと向き合っていた。当時の超最新機器、インターネットTV「インターネッター」(税別19万8000円)の広告が掲載されている22年前の『週刊ベースボール』1997年2月24日号を見返すと、恒例の97年プロ野球全選手名鑑号だ。各球団の注目選手が並ぶ表紙には巨人にFA移籍したばかりの清原和博、それに伴い日本ハムに移籍した落合博満、常連の松井秀喜やゴールデンルーキー井口資仁の顔も確認できる。

 前年日本一のオリックスからは、もちろん23歳のイチロー。そしてもうひとり、トロイ・ニールだ。1995年と1996年、リーグ連覇を達成したオリックスの打線の中心は背番号51の若きスーパースターと背番号16の強力助っ人だった。65年生まれのニールは来日前年の94年シーズン、オークランド・アスレチックスで15本塁打をマーク。その前年もメジャーで19本塁打を記録している。20代後半の現役バリバリの大リーガーと言っても過言ではない左打ちのスラッガーが、なぜオリックスにやって来たのだろうか?

 ドジャースに入団したばかりの野茂英雄が表紙を飾る1995年3月27日号の週べには、191センチ、98キロの“オークランドから来た筋肉マンに直撃インタビュー!”が掲載されている。日本に来た理由を聞かれ、ズバリ「今回の一番の決め手はやっぱりストライキだね」と即答。「人間、生きていく上でお金の蓄えは必要だろ。だから常に収入を得られるところにいることが大事なんだ。日本とかメキシコとか、アメリカ以外の国でも野球で生計を立てられるところだったらどこへでも行くつもりだった」と94年夏からの終わりの見えないMLBストに見切りをつけての来日だった。

 オリックス入団もわずか2週間で決まり、準備する期間もないまま日本へ。キャンプ初日からスーパースターのような豪快な打撃を期待されても、そんなに早い時期から100パーセントの力が発揮できるわけないよ……なんてハイペースキャンプを愚痴りつつ、目標は「打率2割8分から3割以上、ホームランも30本くらい打てる自信がある。一番重要なのは打点だと思っているんだ」と現実的な数字を挙げている。

連覇に貢献した打棒


95年、リーグ優勝時のビール掛けでのイチローとニール


「がんばろうKOBE」を合言葉に一致団結した95年の仰木彬監督率いるオリックスはイチローが首位打者、打点王、盗塁王の活躍でチームを牽引し、見事リーグ優勝。DHでベストナインに選出されたニールも、時に暴言を吐き退場処分を食らいながらも、ホームラン王の小久保裕紀(ダイエー)にわずか1本差の27本塁打で、相棒の“D・J”ことダグ・ジェニングスとともに初Vに貢献する。しかし、ヤクルトとの日本シリーズでは1勝4敗と完敗を喫し、シリーズ第5戦で一打逆転の場面で代打に立ち全力疾走を怠って併殺打に倒れた助っ人は周囲の怒りを買い、井箟重慶球団代表から八つ当たりのように「これは性格上の問題で、言っても直るものではない」とバッサリ。一時は電撃解雇が報じられるも土壇場で撤回され、なんとか2年目のシーズンを迎えたニールは、今度こそ主砲として文句なしの働きを見せる。

 96年は4月下旬から四番に座ると、7月6日近鉄戦(GS神戸)では1試合3発、7打点の荒稼ぎ。さらに日本ハムとの優勝争い佳境の8月24日から9月8日までの12試合で、50打数20安打の打率4割、8本塁打、30打点と無類の勝負強さを発揮する。後半戦から定着した「三番・右翼イチロー、四番・DHニール」の打線についても、「この打順はグレートだよ。イチローはリーグ一出塁率の高いバッターだし、オレとしても今はすごくラクに打席に入れているからね」なんてご機嫌モード。終わってみれば32本塁打、111打点で二冠獲得。なお、31本で悲願のホームラン王にわずか1差で届かなかった清原和博は最終戦後に「神様が僕に与えた試練だと思って、これからも自分を信じて頑張っていきたい」とコメントを残し、11年間在籍した西武を去った。

 パ・リーグが黄金時代の西武ライオンズから、イチロー中心の時代へ。地元神戸で背番号51のプロ初のサヨナラ打で劇的なリーグ連覇を決めたオリックスは、この年“メークドラマ”を成し遂げセ・リーグを制した長嶋巨人と日本シリーズで激突。4勝1敗でオリックスが初の日本一に輝いたが、MVPはシリーズ計3安打も5戦6打点と持ち前の勝負強さを見せたニールが受賞した。試合後、MVPインタビューでは「ガンバロウ、コウベ!」を絶叫。オークランドの筋肉マンは、見事に1年前の解雇騒動の雪辱を果たしたわけだ。

一度解雇も再び来日


96年、巨人との日本シリーズではMVPに輝いた


 シリーズ後の『週刊ベースボール』11月18日号(この号も表紙はドジャースの野茂)には、ニールの“日本一&MVP獲得記念”独占インタビューが掲載。来日1年目の日替わり打線を組む仰木マジックについて若干苦言を呈しつつも、2年目は一番から五番までを固定して先発オーダーを固めたので気持ちよくプレーできたと連覇の要因を分析。仰木監督との関係を聞かれると、「意見が一致しないこともあったけど、ある日、頭に来て監督室に話をしに乗り込んで行ったんだ。そしたら監督はいつものあの大きなスマイルで僕を迎えるもんだから、僕の怒りも監督な豪快な笑い声と一緒にどこかに吹き飛んでしまったよ(笑)」と自分を“闘志あふれる男”と評価してくれる日本のボスに感謝を語っている。

 97年オフには一度解雇されるも、3Aでプレーしているところを98年5月に神戸へ呼び戻され、背番号99をつけ復帰。腹痛を我慢してふらつきながら打席に入りホームランを放ったり、グリーンスタジアム神戸で結婚式を挙げたり多くの話題を提供してくれた選手でもあった。

 偶然にも、シアトル・マリナーズへ旅立ったイチローと同じく2000年限りでオリックスを退団。しかし、今後永久に語り継がれるであろうイチローの偉大なキャリアが神戸で始まったころ、ともにオリックスの「がんばろうKOBE」を支えたトロイ・ニールというスラッガーがいたことも忘れないでいたい。

文=プロ野球死亡遊戯(中溝康隆) 写真=BBM

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