1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。 “パ”・リーグを代表する打者に
「大学に行ったつもりで、4年やってダメなら、やめよう」
そう思っていたという。1983年秋のドラフトで南海に6位で指名されて、84年に入団した佐々木誠だ。なお、この83年秋の6位は最下位だったが、最下位の指名としては珍しく、
日本ハムと南海の2球団が競合している。だが、「メジャーに最も近い男」の片鱗は、まだ見せていない。高校時代は投手だったが、南海からは打撃を買われ、外野手としての指名だった。実際、それほど大きな期待を受けていたわけでもない。この点、同様に「メジャーに最も近い男」と評され、“寝技”でプロ入りして英才教育を受けた西武の
秋山幸二とは対照的だ。
それどころか、
藤原満コーチからは「いつもボーッとして、“パープリン”や」と言われ、それが代名詞としてチームに浸透。すると、開き直って(?)、“パープリン”の“パ”の字を丸で囲み、アンダーシャツやバットのグリップエンドに書き込むように。そんなつもりは本人にはなかっただろうが、その“パ”の字は、魔法の1文字だったのか。この投手出身の高卒ルーキーが“パ”・リーグを代表する打者へと成長するのに、それほど時間はかからなかった。
まずは俊足でアピールした。2年目に代走で一軍デビュー。9月21日の日本ハム戦(大阪)では4回裏にプロ初本塁打となる逆転3ランを放っている。3年目からリードオフマンとしてのスタメン出場が増え始め、中堅のレギュラーを確保したのは4年目だ。規定打席にも到達して、打率3割はクリアできなかったものの、リーグ9位の打率.288。暗黒時代の南海にあって、この若武者の成長は数少ない希望でもあった。だが、その5年目となる88年は、南海のラストイヤーとなる。
なお、“パープリン”は「何も考えずに来た球を打つ」ことが由来という説もある。当時は「初球を見逃すのが暗黙のルール」という雰囲気があった時代だ。初球から積極的に打ちにいく姿勢が、まるで本能で振っているように見えたのだろう。ルーキー時代には、そんな部分もあったのかもしれない。だが、それは大成してからも変わらず。「何も考えていない」どころか、明確な理由があった。
初球からのフルスイングの理由
「攻撃的な野球をやりたい」
それゆえ、初球であろうとタイミングさえ合えば、思い切りの良いフルスイングで振り抜いていった。88年も97試合の出場ながら規定打席にも到達して16本塁打。南海ラストゲームとなった10月20日の
ロッテ戦(川崎)でも最終打席が16号だった。オフの日米野球でもドジャースのエースだったハーシュハイザーから本塁打を放ったが、
「これで勘違いしました。そこからホームランを狙って崩れた。あの頃はトリプルスリーを狙っていたから。でも僕は、そういうタイプの打者ではなかったんですけどね」
ダイエー元年の89年は打率.235と低迷したが、そこから持ち直す。2年連続で全試合出場となった91年はリーグ最多の158安打、打率.304で初めて打率3割を記録。翌92年にもリーグ最多、自己最多の164安打を放ち、盗塁でも失敗を恐れない思い切りの良さが光った。最終的には打率.322、40盗塁で首位打者、盗塁王に輝いている。
なお、当時の「メジャーに最も近い男」とは、現在のようにリアルな意味ではない。攻守走の三拍子が揃った大型選手への称号でもあった。その点は、秋山と同様だ。94年に秋山を含む3対3の大型トレードで西武へ。
「秋山さんの代役は無理。今までと同じ佐々木の野球をやる」
と37盗塁で2度目の盗塁王、自己最多の84打点で西武をV5へと導いた。95年にFA宣言、メジャーから声がかかったが、家族のことを考えて断り、残留。98年オフに自由契約となったときにもメジャーから誘われるも阪神へ。2000年に戦力外となると、ようやく渡米。独立リーグで代打サヨナラ本塁打を放ち、01年限りでユニフォームを脱いだ。
写真=BBM