昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 そろばん勘定で高倉放出
今回は『1966年12月12日号』。定価は60円だ。
1966年11月12日、西鉄の三番打者・
高倉照幸の
巨人放出が決まった。リーグ6位の.279はチーム最高打率でもあり、周囲からは「なぜ」の声が上がった。
「捕手がどうしてもほしい」という
中西太監督が巨人の
宮寺勝利に白羽の矢を立て、巨人側から「高倉以外とは交換できない」と言われたというが、これはにわかには信じがたい。
宮寺は66年16試合の出場。確かに東洋大時代の強打から高い潜在能力は評価されていたが、高倉の1対1の交換要員とは思えない。
要は高倉のトレードマネー狙い、実質的には金銭トレードだったと思われる。
結局、巨人に足元を見られ、銭勘定としては宮寺プラス500万円程度だったらしいが、西鉄は高倉に14年選手のボーナスを支払わなければならず、それが浮くだけでも随分助かったらしい。
これは巨人側からすれば、有名な
川上哲治監督の「五番打者漁り」であるが、高倉のほか
広島の
森永勝也獲得にも動き、こちらは中継ぎの
宮本洋二郎との交換トレードが決まったが、森永が拒否し、引退の意思を明らかにしていた。
これは広島に住む家族を置いての単身赴任への不安や、66年わずか2勝の宮本の交換ということで、自分の評価もその程度なのか、とプライドが傷つけられたこともあった。
さらにいえば、巨人の外野には
柴田勲、
国松彰がでんと構え、そこに移籍の高倉、若手の
末次民夫がいた。自分の居場所があるのか、という思いもあったようだ。
では、またあした。本日は遅くなりすいません。
<次回に続く>
写真=BBM